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[ステンドグラス] 義塾草創期の塾生生活

2009/04/28 (「塾」2009年SPRING(No.262)掲載)
築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内で産声を上げた福澤先生の蘭学塾は、時代を先取り、英語で学ぶ西洋学塾となり、慶應義塾と命名された。
そして、旧弊を断ち切った自由な塾風のもと、志ある若者たちを文明の先導者として、明治社会に送り出した。

義塾の原点は六畳と十五畳二間の蘭学塾だった

築地鉄砲洲中屋敷平面図(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
築地鉄砲洲中屋敷平面図(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
慶應義塾の原点は、1858(安政5)年、中津藩邸内で福澤諭吉先生が始めた塾である。「一階は六畳一間、二階は十五畳ばかり」というから手狭なものである。しかし、形式主義の漢学塾が師弟間に厳然とした区別を設けていたのに対して、差別を嫌った福澤先生の人柄を反映して、その塾風は、友人や学生の合宿所的空気に満ちていたという。1階で翻訳をしていて字を度忘れした福澤先生が、「二階へ駆け上がって、塾生に向ってあの字はどう書いたなどと尋ねて、直ぐ又翻訳に取り掛る」(足立寛の懐旧談)などというほほえましいシーンも伝えられている。

その後、芝新銭座へ移転し再び鉄砲洲に戻る。その塾舎には食堂もあった。

塾生の食器は丼(どんぶり)一つのみ。飯櫃と味噌汁鍋が用意され、食事時間を知らせる拍子木が鳴らされると、「各塾生は手に手に大なる丼を持ち、食堂に駆附け、我れ先にと、味噌汁を掬い取り、汁の上に飯を山盛りに盛りて、急ぎ各自の室に戻りて之を食す。其情恰も戦場の如く」(『慶應義塾五十年史』より抜粋)

なんとも乱雑で行儀の悪い風景ではあるが、彼らは部屋に戻り丼飯をかっこんでまた勉強を続けたに違いない。福澤先生は全くの放任ではなかったが、ガチガチに規則で縛ることもしなかった。後年の「慶應義塾旧書生会」の演説では、「当初は恰も満天下の旧主義を敵にして洋学を主張したることなれば、此方は万事簡易軽便を主として古来の習俗に拘泥す可らず」と洋学を志す草創期の塾生の、旧来の行儀作法を軽んじる心意気を弁護している。その後慶應義塾の「塾風」は清潔で折り目正しいあり方をよしとするものへと徐々に改まっていった。

新入塾生は15カ月で英文のテキストを3冊読む

1868(慶応4)年4月、それまで福澤塾と呼ばれていた私塾は、イギリスのパブリックスクールなど西洋の「共立学校」の制度にならい、洋学を志す同志が結社を共同経営する画期的な開かれた学校となることを宣言し、慶應義塾と命名された。授業では洋風の七曜制を取り入れて日曜は休日、教科は経済、歴史、地理、窮理(物理)、算術、文典、修身論とこれも西洋式である。テキストは主に、1867(慶応3)年に福澤先生が3度目の洋行をした時に購入した英文の原書である。

1869(明治2)年に示された『慶應義塾新議』によれば、入塾生は「西洋のいろは」であるアルファベットを学びながら理学の初歩または文法書一冊を読むのに3カ月、地理または窮理の書一冊を読むのに6カ月、歴史書一冊を読むのに6カ月かかり、あわせて15カ月が初学者の教育課程とされている。まったく英語にふれたことのない者が、わずか15カ月で3冊の原書を読むのは、かなり大変だったことと推測される。

また学業が進んだ者は、半学半教の立場になる。半学半教とは、半分学生で半分教師の意味であり、自ら学びながらも、後輩の塾生の教師として教えることである。当時の学校では普通に行われていたことで、義塾では非常に若くしてこの立場になる者もいて「ボーイティーチャー」と呼ばれたりした。

日本で授業料の制度を初めて採用したのは義塾であり、『慶應義塾新議』には、入塾者が収める入社金と授業料が明記されている。それ以前の日本の社会では、入門時に束脩(そくしゅう)と呼ばれるいわゆる入学金を納め、盆暮れ毎にお礼として分に応じた品物やお金を差し出すのが習慣化していた。

しかし、人を教育することは正当な仕事であり、報酬を受け取るのは当然であるという合理的な考え方から、義塾では授業料制度を設けた。付随して「金を納めるのに水引やのしを使うには及ばぬ」と規定しているのも、授業料制が古い習慣から脱する制度であったことを物語っている。

慶応4年5月15日、市中騒然のなかで福澤先生は…

当時、福澤先生はアメリカの経済学者フランシス・ウェーランドの経済書をテキストに、講義を行っていた。1868(慶応4)年5月15日、薩長を中心とする新政府軍が上野の寛永寺に立てこもった彰義隊を包囲して攻撃した日もその講義日にあたっていた。大砲が轟き、上野の森上空には黒煙が立ちのぼり、市中は騒然としていた。しかし福澤先生は、まったく動じない。通常の時間割にしたがって何事も起こっていないかのように、同講義を行ったのである。

周囲で何が起こっても、学問教育を尊重したというこのエピソードは、後年絵に描かれただけでなく、「かくて自由の鐘は鳴る」のタイトルで映画化もされている。

またこの日を記念して、義塾は5月15日を「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」と定め、毎年同日に三田演説館において一般向けの講演を開催している。

徳川時代から明治へ、江戸から東京へと時代が大きく変化した義塾草創の頃、若き福澤先生と塾生たちは、新しい時代を切り拓かんと真摯に洋学を学び、現在の義塾の基礎を築いたのである。
慶應義塾之記「エーランド氏経済書講義」の講師名に福澤諭吉の名がある(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
慶應義塾之記「エーランド氏経済書講義」の講師名に福澤諭吉の名がある
(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
ウェーランド講述の図
ウェーランド講述の図