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[ステンドグラス] 慶應義塾と一貫教育 <その1>

2007/10/15 (「塾」2007年AUTUMN(No.256)掲載)
明治時代より続く一貫教育は、慶應義塾が誇るべき伝統の一つである。
今回は福澤先生が存命の頃に産声をあげた
「幼稚舎」「普通部」それぞれの成り立ちを通して、
いかにして慶應義塾が一貫教育体制を築き上げてきたかを概観する。

幼稚舎の成り立ち

日本で最古の私立小学校の一つである幼稚舎の起源は、1874(明治7)年、福澤先生が高弟の一人である和田義郎に年少の塾生の教育を託したことにある。

幼稚舎設立の背景には、福澤先生と慶應義塾の名声が世に高まるにつれ、全国から集まってきた塾生の中に年少者が増加したことがある。そのため三田山上には幼稚舎設立以前にも「童子寮」という年少者用の寄宿舎が設けられていた。また、当時は福澤先生や慶應義塾の教員たちの子女の多くが学齢に達しており、次第に「童子寮」より年少者を教育する正式な初等教育機関創設の機運が高まっていた。

福澤先生から初代幼稚舎長を任された和田義郎は、旧和歌山藩士で、かつて藩の留学生として鉄砲洲の福澤塾で学んだ。子ども好きの和田夫妻は、三田山上の自宅に年少の塾生たちを寄宿させて、教育を行った。そのため、当初は「和田塾」という通称で呼ばれていたが、1880(明治13)年頃より「慶應義塾幼稚舎」と称するようになった。

幼稚舎では、全寮制を原則とし、外国人教師を雇い低学年からの英語教育に力を入れるなど、当時の公立小学校には見られぬさまざまな教育上の特色があった。柔術に秀でていた和田は、福澤先生の意を受け、勉強ばかりでなく強健な身体の育成にも力を入れた。なお、当時の幼稚舎は原則として7歳から13歳のまでの学童を対象とする学校だったが、あまり厳格な学年制を採らず、現在の中学生、高校生に相当する塾生も受け入れており、きわめて柔軟な学校運営を行っていたようである。
幼稚舎創立者 和田義郎
幼稚舎創立者 和田義郎
幼稚舎生の服装
幼稚舎生の服装

普通部の成り立ち

慶應義塾の歴史のなかで「普通部」という名称が初めて使われたのは1890(明治23)年。私学として初めて文学・理財・法律の3科の専門課程を有する総合大学として「大学部」が設けられたときである。その際、福澤先生が開いた私塾以来の歴史を有する従来の教育課程を「大学部」に対して「普通部」と称することになった。その後、大学と小学校との中間の中学課程として明確に位置付けられた。現在の普通部は、その創立の起源を次項で述べる一貫教育完成の年としており、1998(平成10)年に、「普通部百年・一貫教育体制確立百年」が祝われている。もちろん現在の普通部は、戦後に生まれた中等部同様、学校教育法における中学校である。

なお、普通部に使われている「普通」という言葉は、現代人がイメージする"ありふれた" "一般的"という意味とニュアンスが異なる。福澤先生は『学問のすゝめ』初編で「人間普通日用に近き実学」と書いており、ここでの「普通」は"共通" "普遍"のニュアンスで使われている。人間として誰もが身につけておかなければならない基本的な教養を学ぶ場という意味である。

一貫教育の完成と幼稚舎・普通部のその後

1890(明治23)年に慶應義塾大学部が発足。しかし、普通部を卒業すれば「慶應義塾卒業生」として認められていたうえに、入学・卒業の時期が異なっており、大学部に進学する塾生は少なかった。やがて大学部存廃の議論を乗り越え、大学部を中心に置く新しい学制の実施を模索。その結果、1898(明治31)年、慶應義塾は5年制の大学部、5年制の普通部、6年制の幼稚舎からなる組織(*1)となり、ここに幼稚舎から16年間の一貫教育体制が完成した。

その年、福澤先生は病に倒れ、3年後の1901(明治34)年2月に逝去。一貫教育の完成は、教育者としての生涯を締めくくる一大改革となった。

一貫教育体制が確立すると同時に、三田山上西側崖下に幼稚舎の校舎と寄宿舎が新築された。1937(昭和12)年に、天現寺の現在地に谷口吉郎設計の新校舎が完成し、移転するまで、三田の幼稚舎の歴史が続く。

普通部は、当初三田山上にあったが、1917(大正6)年に現在中等部がある三田綱町に移転。しかし、1945(昭和20)年5月の東京空襲時に校舎が焼失し、1951(昭和26)年(*2)、日吉本町に谷口吉郎設計の新校舎が完成するまで、天現寺にある幼稚舎に間借りして授業を行っていた。戦後の学制改革の際、旧制中学校の多くは新制高等学校へと移行したが、普通部はその伝統に彩られた名称を替えず、新制中学校として新たな歴史をスタートさせた。

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次号では、第2次世界大戦後に生まれた一貫教育各校の成り立ちを中心に紹介する予定。

*1
一貫教育成立当初、普通部は普通学科、大学部は大学科と称したが、翌年には再び普通部、大学部の名称に戻されている。

*2
1951(昭和26)年9月に教室棟の一部が完成し1学年が移り、翌年9月までに全学年の移転が完了した。
普通部校舎(1901年竣工)
普通部校舎(1901年竣工)
幼稚舎校舎(1898年竣工)
幼稚舎校舎(1898年竣工)