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[ステンドグラス] 慶應義塾の「学食」今昔

2007/04/01 (「塾」2007年SPRING(No.254)掲載)
幕末から明治にかけて、福澤先生の私塾は、築地鉄砲洲から芝新銭座、
そして現在の三田へと、その規模と教育環境を充実させつつ移転した。
「慶應義塾」と命名されたのは、芝新銭座に移った際のこと。
そこにはわが国初の学生食堂が設けられていた……。
時代が昭和を迎えると、義塾の学食はキャンパスごとに独自の発展を遂げていく。
今回は、草創期の食堂をイントロダクションとして、
昭和〜平成期を中心とした各キャンパスの「学食」今昔をたどる。

【イントロダクション】慶應義塾から始まったわが国の学生食堂

芝新銭座時代、塾生が生活を共にした寄宿舎の敷地内には食堂が備えられていた。これがおそらくわが国で初めての学生食堂であると言われている。鉄砲洲の私塾時代も食堂と名付けられた部屋はあったが、実質的には炊事室というべきもので、塾生は各自の部屋で食事をした。しかし、芝新銭座に移った後は、『慶應義塾之記』にある「食堂規則」に「食事は朝第八時、昼第十二時、夕第五時と定む」とある通り、すべての塾生が一堂に会して食事を摂るようになる。また、同規則には「食椅を食堂外へ持出し或は他の用に供すべからず」ともあることから、早くも食椅=イスに座って食事する欧米風のスタイルを導入していたようだ。

1871(明治4)年、慶應義塾は三田に移転。『慶應義塾社中之約束』にも、次のような「食堂の規則」が掲げられている。食事時間を守ることだけではなく、食堂でのマナーや服装にも言及している点が興味深い。
 
また、『西洋衣食住』などを著し、西洋の食文化をわが国に紹介した福澤先生は、義塾の学生食堂のメニューにも早くから西洋食(パン食)を加えていたようだ。
*「慶應義塾」と命名した直後、福澤先生は「慶應義塾之記」を印刷頒布し、義塾の主義・精神を宣言。同書には、規則類も掲載されていた
食堂の規則

第1条 食事の時刻は、日の長短に従て、時々布告す可し。
第2条 食事の時間は朝夕一洋時半づゝ、昼は一洋時を限る。此期に後るゝ者は食に就くを許さず。
第3条 銘々名前の席に就き、互に席を乱る可らず。食椅を汚す事あれば、其席主の責なり。
第4条 立て食事をする禁ず、腰掛台に乗て食事するを禁ず。
第5条 ドテラ、三尺帯等、不相当の衣服を着誌、食に就くを禁ず。

【学食今昔1】三田

現在、三田キャンパスには、北館の「ザ・カフェテリア」、西校舎の「生協食堂」「山食」、そして南館の「P-Net Cafe」と、特色ある4つの学生食堂がある。

このうち、「山食」は戦前からの歴史を持つ。1945(昭和20)年5月、三田は空襲によって大きな被害を受け、食堂の建物も焼失。それでも三田山上で「山食」は塾生に食事を提供し続けた……と言ってもその頃は「山食」という名称ではなかった。創業者のご夫人であり、塾生たちから”山食のおばちゃん“と親しまれた二代目社長である故・塚田幸氏は、当時をふり返って、次のように語っている。

「……焼け跡に寄せ集めのテーブルで、本当に哀れな食堂が出来上がったんです。私、覚えておりますけど、その時に塾生さんが『ここは風が吹くと随分動くね』といって、『まるで山の食堂じゃないか』って。それからだれ言うとなく『山食』というふうになってしまったんです」(『三田評論』昭和60年8・9月号)。当初は塾生の通称だった「山食」だが、現在は正式な名となっている。

戦後、「山食」は1949(昭和24)年に完成した「学生ホール」で営業を始めた。この建物は谷口吉郎設計による木造2階建テラス式のモダンな建物で、1961(昭和36)年西校舎建設のため、キャンパス北側に移 築。1991(平成3)年、今度は北館建設のため「山食」は再びキャンパス西側に戻り、西校舎で現在まで営業している。そのため卒業年次によって塾員が思い浮かべる「山食」の場所は異なる。しかし、創業時から変わらぬカレーライスの味だけは、すべての塾生と塾員、そして教職員が共有しているものだ。
現在のザ・カフェテリア(三田)
現在のザ・カフェテリア(三田)
1949年完成の学生ホール(三田)
1949年完成の学生ホール(三田)

現在の山食(三田)
現在の山食(三田)

【学食今昔2】日吉

日吉キャンパスが開設された1934(昭和9)年、秋に大食堂がオープン。コテージ風の木造2階建の建物は、塾生から長らく「赤屋根」の愛称で親しまれていた。戦後、日吉キャンパスは米軍に接収。その間、「赤屋根」は焼失したが、すぐに再建されている。1950(昭和25)年、米軍からの返還に伴い、もともと大学予科(川崎市・登戸)で食堂を経営していた田沼文蔵氏が大学と高校の食堂を開設した。後に田沼氏は会社名を「グリーンハウス」としたが、これは塾生から公募して決定したものだ。応募案が採用された塾生には、食券1年分が贈呈されたという。グリーンハウスは、現在も第6校舎の「グリーンズテラス」や高等学校の食堂などを運営している。

また、日吉キャンパスには「二幸食堂」や「梅寿司」もあった。昭和40年頃の「梅寿司」について、塾員でアナウンサーの宮本隆治君(元NHK)が、次のように思い出を書き綴っている。「日吉学食には当時、大学の食堂には珍しい寿司屋がありました。ある日、一人の男子学生が丼に入った赤黒いものを食べています。九州は玄界灘の白身魚しか知らない私には初めて見るものでした。それが”鉄火丼“だったのです。ラーメンが六十円なのに鉄火丼は一三〇円くらいしたと記憶しています」(『三田評論』平成17年7月号)

1974(昭和49)年には食堂ホールが完成し、日吉に初めて生協食堂が登場。2005(平成17)年の食堂棟全面リニューアルによって、現在は1階部分にカフェテリア形式の「遊遊キッチン(生協食堂/イタリアントマトカフェ・ジュニア)」、2階にはグリーンハウスが運営する「グリーンズマルシェ(Cafe Marche/山盛亭たらふく/鉄板焼祭/麺処福)」と「とんかつさぼてん」、「G's CAFE」が営業中。鉄板焼、イタリアン、カツといった専門店の系譜が日吉の学生食堂の一つの特色と言えそうだ。

現在の食堂棟(日吉)
現在の食堂棟(日吉)
赤屋根食堂(日吉)
赤屋根食堂(日吉)

【学食今昔3】信濃町・矢上・SFC

現在、信濃町キャンパス内の飲食施設としては中央棟地下の「木村家」(食事、軽食・喫茶・パン)、6号棟地下の「レストランえん」、新棟11階「オアシス」がある。また、同じく6号棟地下にある「ナチュラルローソン」のイートインコーナーも、多忙な塾生から人気があるようだ。病棟正面玄関脇にはレストラン「百跳」があるが、かつてほぼ同じ場所に「慶應四谷食堂」があった。この食堂はやがて「レストラン・喫茶 ブランシェ」と店名を変えたが新病棟着工の際に建物は取り壊されている。

矢上キャンパスは、焼きたてパンが塾生に好評のカフェテリア「ラ・ポワール」(創想館1階)のほか、厚生棟に生協食堂がある。

SFCでは、塾生、教職員、食堂業者が一体となって取り組んだ「SFC食環境改善プロジェクト」などにより、2003(平成15)年には生協食堂が、2005(平成17)年には「SUBWAY」「タブリエ」「カフェテリアレディバード」がオープンした。生協食堂は看護医療学部校舎でも営業している。
四谷食堂(信濃町)
四谷食堂(信濃町)