メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 慶應義塾とサッカー

2006/04/01 (「塾」2006年SPRING(No.250)掲載)
今年6月に開催される2006FIFAワールドカップドイツ大会。
前回の日韓共同開催大会と同様、国際舞台での熱い戦いに大きな注目が集まることだろう。
今回は、日本サッカーの歴史を辿りながら、数々の名選手や指導者などを輩出した
慶應義塾サッカーの足跡を振り返ってみた。

サッカー界を盛り立ててきた塾生・塾員

1951(昭和26)年、1948年ロンドンオリンピック優勝のスウェーデンチームの中核をなしたヘルシングボーリュが来日。
1951(昭和26)年、1948年ロンドンオリンピック優勝のスウェーデンチームの中核をなしたヘルシングボーリュが来日。
慶應義塾が単独チームとして唯一対戦した
 慶應義塾の長い歴史の中で、Jリーガーや日本代表選手といったプレーヤーだけでなく、指導者、サッカー協会役員やクラブチームの経営陣などの運営側、サッカージャーナリスト等数多くの塾生・塾員が日本、そして世界におけるサッカーを盛り上げ、支えてきたことは意外と知られていない。現在、現役のJリーガーとしてはセレッソ大阪、湘南ベルマーレ、チーム経営陣としては浦和レッズ、川崎フロンターレ、FC東京等の各チームで活躍している(2006年2月現在)。J2のアルビレックス新潟をJ1に昇格させ、昨年惜しまれながら退任した反町康治前監督(法学部卒)の名将ぶりは、記憶に新しいところである。
 世界の桧舞台・オリンピックでは、1936年(昭和11)年ベルリン大会に右近徳太郎君(当時塾生・法学部卒)、1956(昭和31年)メルボルン大会に小林忠生君(経済学部卒)・岩淵功君(文学部卒)、1964(昭和39)年東京大会・1968(昭和43)年メキシコ大会に片山洋君(法学部卒)がサッカーの日本代表選手として出場。メキシコ大会では、日本は3位決定戦で地元メキシコを破り、アジアのチームとしてサッカーで初めて銅メダルを獲得した。日本のサッカーを世界に知らしめる大会となった。

体育会ソッカー部 ——義塾のサッカークラブのあゆみ

1969(昭和44)年、第18回全日本大学選手権大会で優勝したソッカー部イレブン。カップを掲げるのは後に日本代表となった大仁選手
1969(昭和44)年、第18回全日本大学選手権大会で優勝したソッカ
ー部イレブン。カップを掲げるのは後に日本代表となった大仁選手
 慶應義塾のサッカークラブの創始は、1921(大正10)年にまで遡る。初めは慶應ブルー・サッカーと称し、後に慶應アソシエーション・フットボール(ア式蹴球)倶楽部と改称。その後、1927(昭和2)年に「ソッカー部」の名称で正式に慶應義塾体育会に加入した。この名称は初代ソッカー部主将を務めた浜田諭吉君(経済学部卒)による命名で、このスポーツの俗称である「SOCCER」から「ソッカー」と命名。当時は一般的でなかった外来語の「ソッカー」を採用したのは、「ア式蹴球部」とした場合、1899(明治32)年以来の伝統を誇る日本ラグビーの開祖「蹴球部」と紛らわしいと思われたためだった。なお、「SOCCER」は、現在はアメリカ英語風に「サッカー」と読み習わされているが、語頭の「SO」はどちらかといえばソに近い発音だというのが浜田君の解釈だった。戦後、「蹴」という文字が「当用漢字表」から外れたため、新聞で「蹴球」の代わりに「サッカー」が使われるようになったが、慶應義塾では今でも「ソッカー部」と称している。ちなみに、早稲田大学では、現在も「ア式蹴球部」という名称を用いている。
 1932(昭和7)年、ソッカー部は「ア式蹴球東京カレッジリーグ」(現在の関東大学リーグ)で初優勝を果たし、東西学生優勝対抗戦でも京都帝国大学を破り初の学生王座を手中に収めた。以後、関東大学リーグ、東西学生優勝対抗戦、全日本選手権、天皇杯、等数多くのタイトルを手にし、1969(昭和44)年には、かつて日本代表として活躍した二宮洋一総監督(法学部卒)に率いられたチームが、関東大学リーグ戦、全日本大学選手権で優勝を果たしている。

サッカーを通じた他大学との交流

1950(昭和25)年、早慶間で定期戦復活の機運が盛り上がり、日本初のナイター試合として実現
1950(昭和25)年、早慶間で定期戦復活の機運が盛り上がり、
日本初のナイター試合として実現
 野球の早慶戦ほど一般的には知られていないものの、半世紀以上にもわたり脈々と続いてきた早稲田大学との定期戦についても、特筆すべきであろう。戦前にも行われていた早慶定期戦が復活したのは1950(昭和25)年のこと。同年10月1日に明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)にて開催された第1回早慶サッカー定期戦は、国内初のサッカーのナイター試合でもあった。当時の競技場の照明は暗く、両大学選手たちもプレーしにくかったのか、混戦の末、6対4で慶應義塾大学が勝利。1959(昭和34)年には、第10回記念定期戦がアジア競技大会開催のため改築された国立競技場で開催された。この大会には、ご成婚間もない皇太子殿下、美智子妃殿下(現天皇、皇后両陛下)をお迎えして行われ、熱戦の結果、1対1の同点に終わった。
 また1964(昭和39)年、当時ソッカー部監督だった小林忠生君と韓国・延世大学のサッカー部監督が旧知の仲であったことから、延世大学とも定期戦が行われるようになった。早稲田大学も1961(昭和36)年より、韓国・高麗大学と定期戦を通した交流を図っており、日韓4大学による「日本・韓国サッカーコラボレーション」が、日韓共同開催となった2002FIFAワールドカップを目前に控えた時期に実現した。この日韓4大学の交流戦は、「慶應義塾・延世」「早稲田・高麗」の2つの連合チームが対戦するもの。ソウル大会開催時には慶應義塾大学と延世大学の選手が2人部屋の宿舎で寝起きを共にするなど、試合以外での交流も図られた。試合結果は2戦とも「早稲田・高麗」チームが勝利したが、日韓4大学にとって勝敗以上の意義を持つ大会だったといえるだろう。
1952(昭和27)年、関東大学リーグ最終戦の対早稲田1-1で引き分けるも戦後初のリーグ優勝をかざる
1952(昭和27)年、関東大学リーグ最終戦の対早稲田1-1で引き分けるも戦後初のリーグ優勝をかざる
1964(昭和39)年、来日した韓国・延世大学と日吉競技場で対戦。翌8月ソッカー部が訪韓。以来国際定期戦が続いている
1964(昭和39)年、来日した韓国・延世大学と日吉競技場で対戦。翌8月ソッカー部が訪韓。以来国際定期戦が続いている

義塾におけるスポーツマネジメントの取組み

 義塾では古くから、選手だけでなく指導やチーム運営等に関わる人材を数多く輩出してきたが、近年、政策・メディア研究科、健康マネジメント研究科などの大学院や体育研究所などにおいても、Jリーグ出身者などが、サッカーをはじめさまざまな競技における理論や実技、スポーツマネジメント等の分野で教鞭を執っている。
 また、犬飼基昭君(商学部卒)が社長を務める浦和レッズが埼玉県の河川敷にレッズランドを開設し地域住民に開放、スポーツを通じた社会貢献を実践する(※)など、塾生・塾員のスポーツに関する活躍の場が広がりつつある。スポーツにおいては、どうしてもプレイヤーにばかり目が行きがちだが、塾生・塾員がさまざまな面でこれからのサッカー界をどのように盛り上げていくかにも注目していきたい。
(※)レッズランドの取り組みについては『三田評論』2006年2月号に「地域密着のスポーツクラブ レッズランド」と題し紹介されている。是非、ご一読いただきたい。

三田評論webサイト http://www.keio-up.co.jp/mita/index.html外部サイトへのリンク