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[ステンドグラス] 慶應義塾とオリンピック

2004/10/18 (「塾」2004年AUTUMN(No.244) 掲載)
2004年夏、近代五輪発祥の地であるアテネで開催された第28回オリンピック大会。柔道、水泳、体操など、連日のメダルラッシュに日本中が沸いた。<長嶋ジャパン>の3番打者で塾員の高橋由伸君(読売巨人軍・外野手)の闘志あふれるプレーに心熱くした塾生も多いのではないだろうか。今回のステンドグラスは、過去のオリンピック大会における義塾社中の日本代表選手たちの活躍を振り返りながら、記憶にとどめておきたいいくつかのエピソードを紹介する。

- 日本人初の五輪メダリストは塾員のビジネスマン

<1>体育会庭球部 熊谷一彌君
<1>体育会庭球部 熊谷一彌君
 日本人選手が初めて参加したオリンピック大会は1912(明治45)年の第5回ストックホルム大会。4年後のベルリン大会は、第一次世界大戦勃発のため中止となり、2度目の参加となる1920(大正9)年第7回アントワープ大会のテニス競技において、初めて日本にオリンピックメダルがもたらされた。その記念すべきメダリストは、塾員であるテニスの熊谷一彌君。シングルス、ダブルスで2つの銀メダルを獲得し、日本人初のオリンピック・メダリストの栄誉を手にした。
 熊谷君は慶應義塾大学卒業後、三菱合資会社に勤務。当時、ニューヨーク駐在員として渡米しており、ダブルスでペアを組んだ柏尾誠一郎氏(東京高等商業学校/現・一橋大学出身・三井物産勤務)とともにテニス王国・アメリカで強豪選手としても活躍していた。特に熊谷君は1918(大正7)年開催の全米オープン選手権でベスト4、翌年の同大会ではベスト8の成績を残し、全米ランキング3位に名を連ねていたほどで、柏尾選手、清水善三選手とともに、1921(大正10)年にわが国初のデビスカップ代表にもなっている。

- 義塾から大挙参加したロス大会-その栄光と悲劇

<2>「友情のメダル」 秩父宮記念スポーツ博物館所蔵
<2>「友情のメダル」 秩父宮記念スポーツ博物館所蔵
 1932(昭和7)年の第10回ロサンゼルス大会では、明治・大正・昭和とアマチュアスポーツの振興に貢献し「市民スポーツの父」と呼ばれる平沼亮三選手団長を筆頭に、義塾は役員・選手総勢28名を大会に送り出した。
 今回のアテネ大会で復活を遂げた「水泳王国・日本」のルーツは、この大会にある。日本選手は、男子6種目中、なんと5種目で金メダルを獲得。法学部生だった河石達吾君も100m自由形に出場し、見事、銀メダルの栄光に輝いている。
 日本水泳 陣は、次の第11回ベルリン大会でも大活躍。塾生の寺田登君は1500m自由形で金メダル、小池禮三君は200m平泳ぎで銅メダルを獲得した。また、同大会では陸上・棒高跳競技で、義塾の大江季雄君が早稲田大学の西田修平氏と5時間半に及ぶ死闘の末、決着がつかず、2位と3位を分け合った。2人は銀メダルを決めるための跳躍をせず、先輩であった西田氏を銀、大江君を銅と決めた。大会後、2人は銀メダルと銅メダルを半分に割ってつなぎ合わせ、「友情のメダル」とした……そんな心温まるエピソードが残っている。
 なお、ロサンゼルス大会の銀メダリスト・河石君は、その13年後の1945(昭和20)年、硫黄島における米軍との激戦により戦死している。太平洋戦争最大の激戦といわれるこの戦闘では、同じくロサンゼルス大会・馬術障害の金メダリスト・西竹一氏も戦死。アメリカ人からも大いに尊敬され、戦闘中、投降を呼びかけられたというエピソードを持つ西氏に比べ、ほとんど語られることのない河石君の悲劇だが、国立競技場内「秩父宮スポーツ記念館」に、その偉業を刻む展示がわずかながら残されている。
 また、ロサンゼルス大会などで選手団を率いた平沼選手団長は、第二次大戦後、市長として横浜市の復興に力を尽くした。現在、横浜市神奈川区に平沼記念体育館が建てられており、多くの市民が気軽にスポーツを楽しむことができる場となっている。

- “医工連携”により義塾端艇部が史上初の準決勝進出

<3>艇庫から出漕するKEIO号、舵に注目
<3>艇庫から出漕するKEIO号、舵に注目
<4>オリンピックメルボルン大会日本代表クルー
<4>オリンピックメルボルン大会日本代表クルー
 1956(昭和31)年のメルボルン大会で、義塾端艇部エイトクルーの9人は、日本ボート史上初のオリンピック準決勝進出を成し遂げた。名艇「KEIO」号によるこの快挙は、工学部(現:理工学部)による力強い支援の賜物といえる。それまで端艇部の活動には、ボートに情熱を注ぐ塾生の多かった医学部が、選手の健康・体調管理、レース合間の酸素吸入やブドウ糖注射などで協力していたが、このオリンピック大会に向け、スポーツにおける“医工連携”ともいうべき、わが国の大学では例を見ない強力なバックアップ体制が敷かれた。
 メルボルン大会出場のための国内予選を勝ち抜いたのは、工学部2年生で端艇部員であった小幡一雄君が設計を手がけた「グルノーブル」号。全日本選手権兼オリンピック代表決定戦で、優勝候補だった京都大学を下したこの艇は、太平洋横断を成し遂げた堀江謙一氏の「マーメイド号」の設計者でもある横山晃氏を「小幡君の船に負けた」と言わしめるほど優れた性能を持つ艇だった。
 その後、オリンピック用の新艇「KEIO」号のために栖原豊太郎工学部教授(当時)をリーダーとする「メルボルン造艇委員会」が結成され、工学部教員の指導のものと、小幡君を含む学生・OBが設計・建造を手伝った。また、オーストラリアに駐在する端艇部OBから報告される、現地に吹く風の状況やコースの水深といった情報も新艇の設計に生かされた。「KEIO」号は、「グルノーブル」号をベースに、流体性能向上と徹底した軽量化が図られ、「決勝でゴールに飛び込んだ途端、バラバラになるような船を狙って設計する」という、オリンピックで勝つためだけの「工学的極限設計」がなされていたという。しかし、この艇は性能面ばかりでなく美観的にも素晴らしく、檜の柾目を生かし、外側をカシュー塗装としたその芸術的なボディーを見るために、現地では大勢の人が押し掛けて来るほどだった。
 8位以内入賞というオリンピックでの闘いを終えた「KEIO」号は、その後、韓国出身の塾員の手に渡った。時を経た1979(昭和54)年、メルボルン大会当時の端艇部員たちが訪韓し、「KEIO」号に再会。「ゴールに飛び込んだ途端、バラバラになる」はずだった艇は、23年前のクルーたちのオールさばきに見事に応え、異国の大河に見事な航跡を描いたという。
 また、さらにその23年後の2002(平成14)年、メルボルン市からクルーにマスターズ・ゲームの招待状が届き、彼らは再び心を合わせオールを握った。
 なお、本年8月1日発行の『三田評論』に「KEIO号、メルボルン五輪秘話」と題した座談が掲載されている。ぜひ、ご一読いただきたい。