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[ステンドグラス] 慶應義塾「ペンマーク」

2004/07/01 (「塾」2004年SUMMER(No.243) -慶應義塾社中特別号-掲載)
慶應義塾のシンボルとして、赤煉瓦の図書館旧館とともに誰もが脳裏に思い浮かべるのが「ペンマーク」だろう。2本のペンが斜めに交差した、実に簡素なデザインだが、それでいて、これほど端的に義塾の姿を象徴したものはない。今回は、このペンマークの歴史および「ペンは剣よりも強し」というイギリス生まれの成句に関するエピソードを紹介する

- 世界へ雄飛する慶應義塾「ペンマーク」

<1>慶應義塾大学紋章(1990年制定当時のもの)
<1>慶應義塾大学紋章
(1990年制定当時のもの)
2005年に改定された現在のエンブレム(大学紋章)(2008/10/1追記)
2005年に改定された現在のエンブレム
(大学紋章)
(2008/10/1追記)
 1世紀以上にわたって、慶應義塾のシンボルであり続けてきた「ペンマーク」。慶早戦のスタンドで力強くはためくブルー・レッド・アンド・ブルー・の塾旗(三色旗)にも、このマークがあしらわれており、義塾社中はもちろん広く一般社会からも認知されていることは周知の通り。そして 今や、世界に対する慶應義塾のシンボルとしての役割も果たしている。
 1990年(平成2)年、交換留学協定校であるオーストラリア・クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamvs Gladio Fortior”から構成されている。
 なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特許庁に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。

- 洋服を着たかった塾生の発案が義塾全体のシンボルになる

 このように広く親しまれているペンマークだが、その制定の由来についてはさまざまな説がある。
 明治20年代の大学設立記念章や卒業証書などを見ると、羽ペンと剣がリボンで結ばれた、現行のものとはずいぶん異なる図柄が使用されている。限られた資料よりわかっているのは、ペンマークは慶應義塾として公式に制定したものではなく、塾生有志のアイディアから生まれ、それが歳月を経て、公認されるようになったものらしいということだ。そして、その誕生のきっかけは「和服」から「洋服」への転換にあった……当時の塾生であった藤田一松君、高田源次郎君の懐旧談によれば、その経緯はおおむね次の通りである。
 1885(明治18)年頃、何人かの塾生が、自主的にそろいの洋服と学帽をあつらえた。ところが洋服姿で街中を闊歩してみると、帽子に記章がないのは、いかにも物足りない感じがする。そこでちょうど講義で使用していたクワッケンボス著『コムポジション・アンド・レトリック』という教科書に載っていた「ペンには剣に勝る力あり」(The pen is mightier than the sword)という成句にヒントを得て、藤田氏が2本のペンを交差した記章を発案。仲間たちの賛同を得て、ペンマークの帽章が作られたという。
 しかし、これには異説もある。同じ明治18年頃、福澤先生の意向を受けた塾生が考案したというのだ。その塾生とは、後年、日系移民のパイオニアとして、アメリカ・サンフランシスコで活躍した塚本松之助君。同君の姪のご子息で、塾員でもある塚本和也君が、1958(昭和33)年に産経新聞紙上で、松之助君が語ったペンマーク誕生のいきさつを紹介している。その記事によると、福澤先生から「塾にはこれと定まった紋章がないが、塚本ひとつ考えて見ないか」と言われ、「ペンと錨を組合せたものと、ペンを斜め十字に交差させた二つの図案」を考案。「しかし、錨との組合せはどうも不釣合だし汽船会社の標章とまぎらわしいということで、十字ペンに決め」て、福澤先生の判断を仰いだところ、「大変よい図案だ」とすぐに決定されたということである。ちなみに、没とした案において錨をペンに絡めて使用したのは 、「海外発展を説く福澤先生の意志を尊重」したものだったという。
<2>大学設立記念章
<2>大学設立記念章
<3>卒業証書 1883(明治16年)
<3>卒業証書
1883(明治16年)
<4>英文法の教科書(クワッケンボス著・米国版)
<4>英文法の教科書(クワッケンボス著・米国版)
<5>「ペンは剣よりも強し」とラテン語で記されたステンドグラスは、権力に屈しない義塾の精神を表している
<5>「ペンは剣よりも強し」とラテン語で記されたステンドグラスは、権力に屈しない義塾の精神を表している

- 21世紀も守り続けていきたい「ペンは剣よりも強し」の理念

 どちらが真説であるか今となっては判断のしようもないが、図案自体が塾生の発案によるものであることは確かなようだ。あるいは同時期に、偶然、藤田君と塚田君が同じような図柄を考案したという可能性も考えられる。義塾にわずかに遅れて、1871(明治4)年創立された共立学校(現在の開成中学校・高 等学校)の校章も「ペンは剣よりも強し」を図案化したものであることから、この成句は、明治初年の学生たちの間で広く好まれていたのかもしれない。
 いずれにせよ1885(明治18)年12月21日付の『時事新報』には「慶應義塾の生徒は従来大抵和服を着用し居たりしたが、今度生徒中の過半が申合せて一斉の洋服に改め、其帽子には前面に洋筆を交叉したる徽号を附することとなし」と報じられている。そして1900(明治33)年には、特に大学部の塾生に対し、「記章附帽子」着用が告示され、ペンマークが正式な義塾の記章として採用されるようになったのである。
 ところで「ペンは剣よりも強し」のそもそもの原典は、19世紀のイギリス人、ブルワー・リットンによる戯曲『リシュリュー』といわれている。このリットンという人物は、1932(昭和7)年、国際連盟によって日華紛争の調査を命ぜられたリットン調査団団長リットン卿の祖父。日本でも親しまれていた「ペンは……」という成句の生みの親の子孫が、剣の力がペンの力を圧倒しようとしていた当時のわが国に対し、警鐘を鳴らしていたという事実は、何か深い因縁を感じさせる出来事ではないだろうか。国際情勢が混迷の度を深める21世紀の今日、慶應義塾がペンマークを掲げる意味を、社中一同、あらためてかみしめていきたいものである。

<福澤先生とジャーナリズム>

小泉信三元塾長による、言論に関わる者の責任を明らかにした名著『ペンは剣よりも強し』。同書には「余輩一本の筆を以て幾萬の兵を未然に防ぐ可能き筈なりき」「私の持論に執筆は勇を鼓して自由自在に書くべし」といった福澤先生の言葉が紹介されている。福澤先生が創刊した『時事新報』(1882)は、不偏不党を編集の主眼におき、日本のジャーナリスムにおける嚆矢となった。
<6>『時事新報』創刊号
<6>『時事新報』創刊号
<7>京橋南鍋町の時事新報社
<7>京橋南鍋町の時事新報社