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[ステンドグラス] 福澤諭吉と北里柴三郎の「情熱」

2004/01/15 (「塾」2004年WINTER(No.241)掲載)
1920(大正9)年、世界的な名声を得ていた細菌学者・北里柴三郎を学部長とする医学部が発足。
福澤先生が熱望した義塾における自然科学教育が、医学部を第一歩として本格的にスタートする。
福澤諭吉と北里柴三郎—。近代日本における偉大な開拓者二人は、
明治という時代にお互いの情熱を認めあい、心温まる親交を築いていた。

- 福澤先生の自然科学教育への情熱を受け継いだ北里博士

<1>ドイツのローベルト・コッホ研究室で破傷風の研究に携わる北里柴三郎 1889(明治22)年
<1>ドイツのローベルト・コッホ研究室で破傷風の研究に携わる北里柴三郎 1889(明治22)年
 若き福澤先生は、大阪の医学者・緒方洪庵の適塾に学び、早くから理科系の専門教育の重要性を痛感していた。1873(明治6)年、福澤門下生であった医師の松山棟庵を校長として開設された「慶應義塾医学所」も、そうした先生の強い志が生んだものといえる。当時大半の官立医学校がドイツ医学を主流としていたのに対し、慶應義塾医学所は英米医学を教授するユニークな存在だった。創立以来300名余りの卒業生を送り出したが、財政上の困難その他の事情で1880(明治13)年に廃校となる。しかしながら、これに続く時代、福澤先生の自然科学教育・研究への情熱は、気鋭の細菌学者・北里柴三郎博士への協力と援助という形で実を結んでいった。福澤先生の志の高さと深い恩義を感じた北里博士は、福澤先生の死後もその遺志を受け継ぎ、大学医学部開設に尽力。1917(大正6)年、慶應義塾医学科予科、3年後に大学令による大学医学部が開設された。初代学部長として迎えられたのは、もちろん北里柴三郎博士、その人である。

- 福澤先生が私財を投じて伝染病研究所の設立が実現

<2>来日した、恩師ローベルトコッホと厳島にて 1908(明治41)年8月
<2>来日した、恩師ローベルトコッホと厳島にて 1908(明治41)年8月
<3>創立当時の北里研究所
<3>創立当時の北里研究所
<4>1893(明治26)年発行の「延世義勇忠臣雙六」の一部に描かれた福澤先生(右)と北里柴三郎
<4>1893(明治26)年発行の「延世義勇忠臣雙六」の一部に描かれた福澤先生(右)と北里柴三郎
 北里柴三郎博士は1853(嘉永5)年に現在の熊本県で生まれた。東京医学校(現・東京大学医学部)を卒業後、内務省衛生局に職を得る。1885(明治18)年、ドイツに官費留学。細菌学の第一人者、ローベルト・コッホに師事し、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、破傷風菌の作る毒素とその抗毒素抗体を発見。その抗体を動物の体内で作らせて治療に使う「血清療法」を確立し、その名を世界にとどろかせた。1892(明治25)年に帰国。そして、北里博士が留学最終年に取り組んだ結核の研究成果を待ちわびていた内務省の一同は省内に伝染病研究所を設立するために国会への議案提出、予算編成等の準備を進めていた。当時、結核や伝染病の対策は急務であったが、国立研究所の設立には少なくとも2年は掛かるため、北里の上司であり、終生の後援者となった長与専齋が福澤先生に打開策を相談に行き、私立の伝染病研究所設立の案と援助の約束を得た。長与専齋は福澤先生と適塾以来の親友であった人物である。即座に福澤先生は芝公園内の所有地を提供し、私財を投じて私立伝染病研究所の設立を実現した。
 2人の親交はこうして始まった。福澤先生57歳、北里博士40歳の時である。
 伝染病研究所は1899(明治32)年に内務省管轄となる。北里博士の指揮監督下で年々隆盛したが、福澤先生は「政府の方針がいつ変わるかもしれないから」と研究資金を蓄えておくように助言。また、それ以前に芝白金の土地を提供し、日本初のサナトリウム(結核療養所)「土筆ヶ岡養生園」を設立させ、将来に備えさせた。福澤先生の危倶は的中した。1914(大正3)年、政府は突如、研究所の所管を文部省に移し、東京大学の傘下に入れるよう組織がえを図ったのだ。この強引な政策に反対し職を辞した北里博士は、心置きなく自らの研究に取り組むために北里研究所を開設。その開設資金は福澤先生の助言によって蓄財しておいた私財30万円だった。

- 大きな期待と愛情ゆえにあえて北里博士を叱責する

 福澤先生の北里博士に対する温かい想いやりは終生変わらぬものだったが、好意と期待から、あえて苦言や厳しい忠告を発することも少なくなかった。北里博士を激しく叱責したエピソードとして「牛乳ビン事件」が知られている。先に述べた養生園では、福澤先生が好んで飲まれていた牛乳を福澤別邸に毎日届けていた。ところがある日、届けられた牛乳ビンの口の部分には毛髪のようなものがついていたのだ。それを見た福澤先生は烈火のごとく怒り、養生園事務長に手紙を送った。その手紙では、病院の繁盛してきたのに慣れて万事なおざりになってきたことの表れではないか、と指摘し「このビンは養生園の事務腐敗の記念として、口のところに何か毛のごとき汚物あるそのまま、ミルクのあるまま保存いたしたく、後日に至るまでもよき小言の種と存じ候」と記している。この手紙を読んだ事務長は、あわてて福澤邸にお詫びに訪れる。だが、福澤先生の怒りはなかなか解けず、「手紙は北里に見せろ」と厳命。翌朝、手紙を読んだ北里博士は、取るものも取りあえず福澤邸を訪れ、およそ3時間もの間、福澤先生にみっちりと絞られたという。ちなみに北里博士白身も研究所員にはたいへん厳しく、門下の志賀潔(赤痢菌の発見者・後に慶應義塾大学医学部教授)に「この叱責に縮みあがるような者は伸びることができない、自ら反省して進む者のみが大成する」と言っていたという。
 そうした北里博士なればこそ、福澤先生の激しい怒りの中に、自分に対する大きな期待と愛情を感じ、その苦言の一つひとつをしっかりと受けとめていたに違いない。

 北里博士は福澤先生の逝去に際して次のような弔辞を寄せている。「その遺訓を体し切蹉研鑚以て、万一の報恩を期せんとす」その言葉通り、北里博士は後に慶鷹義塾の医学教育の発展に心血を注いだ。北里博士の情熱は生誕150周年を迎えた今日も大学医学部・大学病院に息づいており、医学メディアセンダーの建物には「北里記念医学図書館」としてその名が刻まれている。
<1><2><3>写真提供:社団法人 北里研究所