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[ステンドグラス] 慶早戦百年の歴史

2003/10/17 (「塾」2003年AUTUMN(No.240)掲載)
早慶両校が良きライバルとして切磋琢磨して築き上げられた慶早戦百年の歴史。
両校の名誉を懸けての戦いの歴史は、日本の野球の原点であるとともに、
学生スポーツの理想像を追い求めた道のりということができる。
今回は草創期から第二次世界大戦前を中心に、慶早戦の歩みをふりかえってみたい。

- 始まりは早稲田からの挑戦状

 1888(明治21)年、慶應義塾大学体育会野球部の前身である三田ベースボール倶楽部が誕生【写真<1>】。遅れること13年、1901(明治34)年に早稲田大学野球部が誕生する。
 そして、第1回の慶早戦が行われたのは、日露戦争前年にあたる1903(明治36)年。その年の11月5日に早稲田からの正式の挑戦状【写真<2>】が送達され、11月21日に東京三田綱町グランドで、記念すべき初めての試合が開催されることが決まった。
 試合当日の天気は快晴。慶應17安打、早稲田13安打という大接戦の末、11対9で義塾が早稲田を制した。試合後、両チーム【写真<3>】は翌年より春と秋に1試合づつ慶早戦を行うことを取り決め、再会を約した。そしてこの一戦を契機に、私学両雄による「慶早戦」はたちまち野球ファンの心をつかみ、社会的な注目を集めることになった。
 ところが、間もなく慶早戦は長い中断を余儀なくされてしまう。1906(明治39)年秋、早慶両校の応援団の異様な過熱ぶりに試合続行が不可能となり、以後20年間、慶早戦中止……。その復活は、六大学野球連盟の発足する1925(大正14)年まで待たなければならなかった【写真<4>】。
<1>三田山上での野球
<1>三田山上での野球
<2>慶早戦のきっかけとなった早稲田からの挑戦状
<2>慶早戦のきっかけとなった早稲田からの挑戦状
<3>第1回慶早戦に出場した両軍メンバー 1903(明治36)年
<3>第1回慶早戦に出場した両軍メンバー 1903(明治36)年
<4>1906(明治39)年慶早野球戦(綱町)。この試合を最後に1925(大正14)年の復活戦まで中止となる
<4>1906(明治39)年慶早野球戦(綱町)。この試合を最後に1925(大正14)年の復活戦まで中止となる

- 早慶両校の熱戦、そして熱狂

<5>昭和初期の慶早戦応援風景
<5>昭和初期の慶早戦応援風景
<6>昭和初期、黄金時代の主力左より水原、岡田、牧野、堀、楠見、山下実
<6>昭和初期、黄金時代の主力左より水原、岡田、牧野、堀、楠見、山下実
 1927(昭和2)年【写真<5>】には、ラジオで初の慶早戦の実況中継が行われた。義塾は復活後初の連覇を達成し、その年には塾生の発議により応援歌「若き血」が作られた。「若き血」は勝利の盛り上がりの中で全塾生から熱狂的に迎えられ、現在まで歌い継がれていることはご存じの通りである。  1933(昭和8)年秋、「リンゴ事件」が起きる。六大学野球のスターだった義塾の水原茂(後年、読売巨人軍監督)【写真<6>】は、9回表、三塁の守備位置についた。水原は激しい野次の挑発にも乗らず冷静だった。すると早稲田応援席からグラウンドに大きな食べかけのリンゴが投げ込まれた。水原はそれを拾い、「守備している姿勢のまま逆に壁の方へ投げ捨てた」(水原茂著『華麗なる波乱』)。それが早稲田応援団から「敵対行為」と指弾され、9回裏、義塾が逆転サヨナラ勝ちをすると、早稲田応援団が球場に雪崩れ込み、大混乱を引き起こした。騒動自体は誉められたことではなく、慶早戦史上の汚点ともいえるが、両校の名誉をかけての真剣な闘いをよく表すエピソードではある。ちなみに、それ以降、早稲田は一塁側、慶應義塾は三塁側に応援席を設けるようになった。

- 戦争による中断と戦後の再生

 やがて日中戦争から太平洋戦争へと進む時代へ。学徒出陣が始まり、野球部員たちにも学業半ばで戦地へ赴く運命が待ち受けていた。そんな塾生たちの気持ちを察した小泉信三塾長(当時)の配慮により、1943(昭和18)年10月「出陣学徒壮行慶早戦」【写真<7><8>】が早稲田の戸塚球場で挙行された。試合は10対1で義塾の大敗。しかし試合後、勝ち負けに関係なく、スタンドの人々が一体となった感動の瞬間が訪れる。突然バックネット裏から湧き上がった「海ゆかば」の厳粛な歌声が、球場全体に広がったのだ。その後の戦時下、慶早戦だけでなく野球は空白の時代に入る。そして戸塚球場で感動の試合を行った選手たちの多くが前線へと向かい、二度と球場に戻ることはなかった。  終戦直後の1945(昭和20)年秋、早くも「野球復興第一陣全慶早戦」が行われ、スポーツと平和、そして復興への第一歩が始まる。サンフランシスコ講和条約を経て、安保闘争があった1960(昭和35)年秋には、早慶とも互いに譲らず驚異の「6連戦」【写真<9>】が行われるなど、戦後も歴史に刻まれる数々の名勝負を生み出している。  1960年代には、野球人気の中核はプロ野球へと移行していくが、伝統の一戦に青春を懸ける選手たちの誇り、そして慶早戦の醍醐味であるグラウンドと観客席の一体感は今も少しも変わらない。塾生のみなさんも、ぜひ春と秋に繰り広げられる感動のドラマを味わってほしい。
<7>学徒出陣した選手達のサインボール
<7>学徒出陣した選手達のサインボール
<8>出陣学徒壮行慶早戦 1943(昭和18)年
<8>出陣学徒壮行慶早戦 1943(昭和18)年
<9>球史に残る慶早6連戦の熱闘 1960(昭和35)年 
<9>球史に残る慶早6連戦の熱闘 1960(昭和35)年