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[ステンドグラス] 『福澤諭吉の肖影に接して』~ロンドンで発見された鮮明な肖影写真から~

2003/01/15 (「塾」2003年WINTER(No.237)掲載)
福澤諭吉が文久遣欧使節団の随員としてヨーロッパを巡った際の鮮明な写真が発見されました。
若かりし日の福澤諭吉について高等学校柴田利雄教諭が紹介します。
 昨夏、ロンドンにあるミッシェル・G・ウィルソンセンター館長のバイオレット・ハミルトン氏より、私のもとに福澤諭吉の非常に鮮明な肖影のスライドが贈られてきました。原画は現在同センターに所蔵されています。これとほとんど同じものが福澤宗家旧所蔵で現在福澤研究センターに所蔵されていますが、残念ながら鮮度はかなり落ちております。今回ここに掲げたこの肖影は、おそらく現存する福澤の肖影の中では、最も鮮明かつ高画質のものの一つでありましょう。
 このロンドンで発見された肖影は、福澤が文久2(1862)年1月よりほぼ一年にわたって、フランス・イギリス・オランダ・プロシア(ドイツ)・ロシア・ポルトガルなどヨーロッパ諸国を巡遊した時のもので、年齢はまだ満27歳という若さでした。
 
 その歴史的背景を述べれば、福澤が江戸にオランダ語の学塾を始めたのが1858年の秋のことで、その年は日本が欧米列強と通商条約を結んだ年でありました。よって福澤は早速開港場となった横浜に出向き、自らの語学力を試そうとしました。しかし、福澤のオランダ語は全く通じず、それどころか外国商店の看板すら意味不明のものでした。それが英語かフランス語であるかどうかすら分からなかったのです。しかし英語が世界の大勢であると知ると、持ち前の敢為の精神をもって英学に転向し、その苦労の甲斐あって1860年あの咸臨丸にてサンフランシスコヘの派遣となりました。
   
 この時の渡米の経験は福澤の英語力を一層高め、ついにこの一ヵ年にわたる江戸幕府による遣欧使節団の通詞として選ばれたのです。幕府の旗本でもなく、大分県中津藩の一家臣が陪員ではあっても、正式にこの使節団の一員となったことは、当時としては異例なることです。派遣の理由は、幕末の混乱した政情のため、先の通商条約にもとづいて開かれる港について、その延期交渉などが主なものでした。交渉は各国で厳しい対応に直面しますが、福澤はここにあって精力的にヨーロッパ文明を実見し、その経験がのち福澤の出世作『西洋事情 』の刊行となって花開きました。
 この巡遊の際撮影された肖影は、現在のところパリ・オランダ・ベルリン・サンクトペテルブルクなどでの十数枚が確認されていますが、ロンドンでのものは、これまで一枚も発見されていませんでした。ロンドンは、1862年旧暦4月1日より5月15日まで約一カ月半という長い間滞在したところです。
 今回発見された肖影は、福澤の慈悲と叡智そして品格とを見事に表現し、かつまた人間の尊厳を高度に表したものであるかと思います。19世紀後半、繁栄をきわめていた ヨーロッパ列強の国々を巡遊しても、日本の使節団の一員として全く気後れせず、確たるプライドをもって対応した姿を想像することができます。さらにまだ満27歳という若さにもかかわらず、すでに完成された「独立自尊」たる人間の印象を受けます。
 いまや世の中に直接福澤の薫陶を受けた人は一人も生存していません。われわれがその教えを継承していくには、福澤の精神を今に伝える人に接し、かつ遺された多くの著書と書蹟、そして肖影などを通して学んでいくしかないのであります。今回発見された肖影写真を通して、塾生たちに福澤の「独立自尊」の精神を伝える一助となればと思います。