メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 「学業成績表」の歴史

2002/07/01 (「塾」2002年SUMMER(No.235)掲載)
自分の成績表を見て一喜一憂するのは、いつの時代も学生の習い。
しかし、成績表の形態やあり方は、時代によって異なっており、過去の成績表は、
教育の方法論や学生の意識を知るための重要な歴史資料となる。
今回は、明治期における慶應義塾の成績表「学業勤惰表」を考察してみよう。

- 明治期、全塾生の成績が印刷・公表されていた

  慶應義塾における成績表のルーツと言えるのが、小学課程から大学課程までの全塾生の出欠状況と学業成績を一覧表にした「慶應義塾学業勤惰表」(写真①)である。明治4年、慶應義塾が芝新銭座から三田山上へ移転直後より発行され、当初は毎月、後には年に3回印刷発行されていた。明治4年という年は、三田への移転ばかりでなく、塾内の規則として「慶應義塾社中之約束」が制定され、カリキュラムが刷新された年で、「学業勤惰表」の発行もこうした一連の新しい動きに呼応したものと考えていいだろう。
 「学業勤惰表」は、1冊ずつ全塾生に配布され、所定の代金を払えば何部でも購入することができた。つまり、当時は学業成績を広く公表していたのである。現在、慶應義塾大学では、原則として保証人に成績を通知しているが、学業成績の公表は慶應義塾に限らず明治時代には珍しいことではなかった。この時代の学校案内の中には在学生の成績表が付録となっているものまである。そして明治13年、慶應義塾は当時の文部省から「慶應義塾社中之約束」および「慶應義塾勤惰表」をオーストラリア・メルボルンで開催される博覧会に出品するように要請を受けている。(写真<2><3><4>)これらの資料が実際に展示されたかどうかは定かではないが、わが国の教育を代表する資料として、国外での公開まで考えられていたことは確かである。当時の学業成績は、今日のように必ずしも個人情報ではなく、パブリックな情報と認識されていたのかもしれない。また、明治期の慶應義塾は、その名の通り私塾としての性格が色濃く、同じ寄宿舎で寝食を共にする仲間同士、お互いの成績や席順に関しても、極めてオープンな気風が満ちあふれていたのだろう。「学業勤惰表」の最古の物である明治4年4月発行分には、旧所蔵者によると思われる多くの朱書きが入っており、ここから類推すると、第一等から第四等までの上級生が、第五等以下の下級生を教えていたことが分かる。これは慶應義塾の「半学半 教」の実例として貴重な記録と言えるだろう。
 なお、「学業勤惰表」は、明治4年4月から10月までは「木版・半紙横斤仮綴」、明治5年9月には「活版・一枚両面印刷」に、さらに明治16年9月より洋装冊子へと体裁がグレードアップしており、明治31年4月のものまで、計91種類の発行が確認されている。またそのほかに、春秋2回の 試業(試験)の成績一覧「慶應義塾大試業席順」(明治4~5年の3回分)も遺されている。
<1>明治4年「学業勤惰表」
<1>明治4年「学業勤惰表」
<2>往復書類(東京都公文書館保存)
<2>往復書類(東京都公文書館保存)
<3>博覧会出品要請(第二十二号部分)
<3>博覧会出品要請(第二十二号部分)
<4>「メルボルン博覧会」「慶應義塾」の文字が読み取れる。
<4>「メルボルン博覧会」「慶應義塾」の文字が読み取れる。

- 卒業できたのは2人に1人 厳格な及第判定

<5>大学部学生勤惰表
<5>大学部学生勤惰表
<6>法律科壱年次
<6>法律科壱年次
 1990(平成2)年、奇しくも大学部開設百周年の年に、マイクロフィルム版福澤関係文書編集作業中の福澤研究センターのスタッフにより「大学部学生勤惰表 (以下、学生勤惰表)」が発見された。これは大学部(文学・理財・法律の3科)が開設された明治23年から同32年までの10年分の学業成績表で、前述の「学業勤惰表 」のように印刷物ではなく、毛筆書きで認められている(写真<5>)。
 ここで写真<6>をご覧いただこう。これは大学部開設初年度に発行された「学生勤惰表」法律科の第1ページ目である。現在の大学の成績表は、各教科A・B・C・Dの4段階評価で、C以上が及第点となっているが、この「学生勤惰表」には、各教科の試験の点数がそのまま記載されてい る。及第点の基準は、当時の大学部規則を見ると「全科の得点を合し満点数の七割以上」であり、「四割以下点数二課目あるもの、及(び)三割以下の点数一課目あるものは落第とす」とある。現在のカリキュラムに比べると、進級するための条件がよりシビアであり、判定そのものもかなり厳格であったと考えられる。
 『慶應義塾百年史』によると法律科入学者は9名であったが、そのうち卒業できたのはたった5名。理財科、文学科も卒業できた者は同程度であり、病気や経済的理由で学業を断念したケースもあったが、入学 者2人に1人の割合でしか卒業することがきなかった。なお、写真の「学生勤惰表」で成績トップの神戸寅次郎は、後に法学部長を務めた人物である。

 さて、今年度末に成績表を受け取った塾生諸君は、「A」の数を気にするだけではなく、ぜひ、自らが過ごした1年間をじっくりと振り返る気持ちで、成績表を手にしてほしい。そして、お互いの成績を知り尽くした明治の先輩たちが、その後、力を合わせて近代日本のあらゆる分野で新生面を切り拓く活躍をしたことに思いを馳せてみてはいかがだろう。温故知新——。そこから自分自身の未来が、見えてくるかもしれない。