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[ステンドグラス] フランスにおける福澤諭吉の足跡

2001/12/15 (「塾」2001年WINTER(No.232)掲載)
文久遣欧使節団の随員(傭通詞=通訳)として、フランス、イギリス、オランダ、ロシア、プロシア、ポルトガルを半年かけて巡り、
意欲的に各国の制度や文物、技術などの視察を行った若き福澤諭吉。
記念すべきヨーロッパのへの第一歩を記したのがナポレオン3世が治めるフランスだった。
 1862年1月22日、外国奉行兼勘定奉行・竹内下野守保徳を正使とする「文久遣欧使節団」はイギリス軍艦オーヂン号に乗船し、品川を出港。使節の目的は江戸、大阪、兵庫、新潟の開港・開市延期をヨーロッパ6カ国と談判することだった。そして、このヨーロッパを巡る旅で福澤が得たものは計り知れない。パリではフランス人東洋語学者・ロニという知己を得ることもできた……。
 学生総合センター「大学生活懇談会」が主催する海外見学会は、使節団の一員として若き福澤が来訪した土地や史跡を実際に訪ね、当時に思いをはせる海外ツアー。今年は9月7日(金)から10日間の日程でフランスを訪問した。大山耕輔法学部教授の引率の下、講師として福澤の事跡に造詣の深い 大澤輝嘉中等部教諭が同行。そこで今回は大澤教諭が撮影した写真を中心に、マルセイユ~リヨン~パリと福澤の足跡をたどってみる。
レオン・ド・ロニ肖像【Leon de Rosny 1837~1914】福澤と親交を結んだ東洋語学者
レオン・ド・ロニ肖像【Leon de Rosny 1837~1914】福澤と親交を結んだ東洋語学者
パリでの福澤—滞在時にロニの依頼で撮影された肖像写真
パリでの福澤—滞在時にロニの依頼で撮影された肖像写真

- マルセイユ

マルセイユ旧港—福澤らが最初に目にしたヨーロッパの地
マルセイユ旧港—福澤らが最初に目にしたヨーロッパの地
 「仏蘭西は日本を去ること西の方五千里、欧羅巴繁昌の国々の真中にある大国なり」(『条約十一国記』より)。香港、シンガポール、インド洋から紅海を経て、陸路でスエズ、カイロを通り地中海に入った文久遣欧使節団は、4月3日にフランスの地に第一歩を記した。約2ケ月の旅程だった。一行が上陸したのは地中海沿岸有数の港湾都市であるマルセイユ。福澤らが到着した旧港は、今ではヨットハーバーとして使われている。福澤ら使節団は、ホテル・デ・コロニーに宿泊し、4月5日列車でフランス第2の都市リヨンに向かった。

- リヨン

 「リヨンなどといへる所は織物の名所にて世界中に評判高し」(『条約十一国記」より)。4月5日にリヨンヘ入った一行は、現在のリパブリック通り16番地にあったグランド・ホテルに宿泊。現在、その建物はホテルとしては営業していないが、ほぼ当時のまま残されている。使節団一行は、4月7日朝にリヨン・ペラーシュ駅を出発し、夕刻パリ・リヨン駅に到着。ちなみにこの路線には、現在、フランスの新幹線TGVが走っている。福澤は鉄道の敷設やその会社運営、運賃制度などについても 大いに関心を抱き、この後に詳しく調べている。また、パリに向かう車窓から眺めた南フランスの風光明媚な田園風景に大いに心動かされたようで、その感想を福澤にしては珍しく詩的な筆致で記述している。
リヨン・ベラーシュ駅—当時とほぼ同じ作りとされる現在の駅舎
リヨン・ベラーシュ駅—当時とほぼ同じ作りとされる現在の駅舎
グランド・ホテル—建物は使節団が宿泊した当時のまま
グランド・ホテル—建物は使節団が宿泊した当時のまま

- パリ

 「仏蘭西の都をパリスといふ。其奇麗なること欧羅巴州中の第一にて、即ち世界第一の都といふべし。市中の家は六階七階に立並び、夜分は往来に万燈を照らして昼夜の差別なく、其繁昌華美なること 譬んかたなし。但し人の数は百万人余にて、都の広さも英吉利のロンドンよりは狭し。日本にていへばパリスは大坂に似て、ロンドンは江戸に似たり」(『条約十一国記 』より)。
 使節団一行は4月7日から4月29日までパリに滞在。ちょうどナポレオン3世による大規模な都市整備が行われた直後で、有名なオペラ座の建物は折しも建設中。福澤らが訪れた場所の多くは現在でも建物がそのまま残されている。使節団が宿泊した「ホテル・デュ・ルーブル(Hotel du Louvre)もその一つ。また、福澤が「西航手帳」を購入した「フォルタン文具店(Fortin Papeterie)」の建物も現存する。ヨーロッパ滞在時の見聞を書き記した「西航手帳」は、その後『西洋事情 』といった著書執筆のベースとなる重要な記録といえる。なお、フォルタン文具店は、パリ郊外北西のクリシーに移転しており、総合事務機器メー力一として現在も営業している。
 さて、このパリ滞在中に、使節団の竹内下野守らは、開港・開市延期交渉に当たるためナポレオン3世に謁見した。随員だった福澤はその準備作業などに追われていたが、その合間を縫ってのパリ見聞を行っている。その際、良きガイド役となったのが、東洋語学者レオン・ド・ロニである。フランス政府から通訳兼接伴委員として派遣されたロニは、福澤より2歳年下の当時25歳。お互いの文化に関する知識を交換していくうちに、同世代の2人は次第に親交を深めていく。東洋語学校で中国語を習得し、独学で日本語も学んでいたロニだが、2人の会話は筆談も交えて行われていたようだ。ロニの案内によって訪れた場所の一つがパリ南東部にある「植物園(Le Jardin des plantes)」。1635年に高名な博物学者ギ・ド・ラブロスによって開かれ、1732年にビュフォンがここに博物学のコレクションを作り上げた。
 ロニは遣欧使節団一行がフランスの地を離れた後も、福潭らを訪ねてオランダやロシア・ペテルスブルクまで訪ねてきたという。この好奇心旺盛なフランス人に関して、福澤は「『欧羅巴の一 奇士 』といふべし」と『西航記』に親愛の情を込めて書き残している。
 使節団は帰路にプロシア、ベルギーを経て、9月22日、再びパリに入り、今度は「グランド・ホテル(Grand Hotel )」に宿泊。10月5日までパリに滞在した。この間、福澤はマドレーヌ寺院のほか、ロニと共にフランス学士院、国立図書館なども訪れている。
 ロニという格好の案内者を得た福澤のヨーロッパ巡歴。この体験は、その後、近代日本縦横に活躍する大きな糧になったといえるだろう。」
<1>旧ホテル・デュ・ルーブル(Hotel du Louvre)現在、ホテルは向かい側に移転している
<1>旧ホテル・デュ・ルーブル(Hotel du Louvre)現在、ホテルは向かい側に移転している
<2>フォルタン文具店(Fortin Papeterie)跡。1820年創立の文具店があった建物
<2>フォルタン文具店(Fortin Papeterie)跡。1820年創立の文具店があった建物

<3>ヨーロッパ旅行中愛用した「西航手帳」
<3>ヨーロッパ旅行中愛用した「西航手帳」
<4>植物園(Le Jardin des plantes)。ビュフォン銅像前での海外見学会一行
<4>植物園(Le Jardin des plantes)。ビュフォン銅像前での海外見学会一行