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[ステンドグラス] 一万円札の福澤肖像とイタリア人・キョッソーネ

2001/03/01 (「塾」2001年EARLY SPRING(No.228)掲載)
昨年、久々の新札として「二千円札」の発行が大きな脚光を浴びた。
そこで思い出されるのが、17年前、一万円札に福澤諭吉像が選ばれたことである。
今回は、その一万円札の福澤諭吉先生肖像と、
明治期に福澤先生の銅版肖像を制作したあるイタリア人との関係について紹介してみたい。

- 一万円札の福澤肖像は何をモデルにしたのか?

 福澤先生が一万円札の〝顔〝となったのが、昭和59年(1984)11月。千円札の夏目漱石、五千円札の新渡戸稲造と、いずれも明治期における国際派の文化人が紙幣に登場したことが、当時のマスコミで大いに話題になったことは記憶に新しい。新札発行当時、三和銀が行なったアンケート調査で、「(新札に登場する3人のうち)あなたは誰に対して親しみを感じますか?」という問いに対して、トップが福澤諭吉(49・2%)だったことも、あらためて誇らしく思い起こされる。
 その一万円札に描かれた福澤先生像の〝モデル〟になったと思われる一枚の写真がある。
 写真好きとして知られる福澤先生は、万延元年(1860)の幕府遣米使節団随行の折に、サンフランシスコの写真館で写真師の娘と一緒に撮影したのをはじめ、晩年にいたるまで多数の肖像写真を残している。一万円札の福澤肖像の参考になったのは、その中でも福澤先生お気に入りの一枚で、現在も福澤家に残されているものだ。
 それと同じ写真を参考にして、福澤先生の生前にエドアルド・キョッソーネというイタリア人が、当時の紙幣製造に用いられたものと同じ彫り方で銅版肖像画を制作している。エ ドアルド・キョッソーネ。彼はどのような人物なのか?

- 日本の印刷文化の発展に多大な貢献をしたイタリア人

 19世紀初めイタリア・ジェノバ郊外のアレンツァーノという小さな村に生まれたキョッソーネは、ジェノバの美術学校で複製銅版画制作を学び、パリ万博などに作品を出品。その後、イタリア国立王国銀行からドイツに派遣され、紙幣製造技術を修得した。そして明治8年(1875)に、明治政府の招きで来日。大蔵省紙幣寮(後の印刷局)でいわゆる「お雇い外国人」として、紙幣や切手の印刷に従事し、銅版制作の技術指導にもあたった。日本初の紙幣に描かれた神功皇后の肖像画も彼の作品であり、その業績は『大蔵省印刷局百年史」などにも詳しく記されている。キョッソーネをその源とする紙幣製造技術で制作された現代の一万円札。そしてそこに描かれた肖像も、キョッソーネが福澤先生の銅版肖像画制作の参考にしたのと同じ写真をモデルにしたものだった……ここに歴史の巡り合わせというものを感じざるを得ない。
 キョッソーネは、大蔵省印刷局の仕事と共に、明治天皇をはじめ西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などの肖像を、コンテ絵や銅版画として残している。今、これらの幕末・明治史を彩る人々の名を聞いて、私たちが思描く〝顔〝の多くが、実はキョッソーネが描いたものなのである。福澤先生の肖像は、当時の大蔵省に勤務していた慶應義塾門下生のはからいによって実現したという。 
右が福澤家所蔵の写真、左がその写真をもとに制作されたキヨッソーネ作成銅板肖像(複写)。服装、ポーズ、表情など非常に酷似していることがわかる。この銅版画の原版画の原板はすでに失われてしまっている。

- 生涯、日本の「美」を愛し、膨大なコレクションを遺す

エドアルド・キヨッソーネ
エドアルド・キヨッソーネ
【Edoard Chiossone・1832~1898】イタリアの銅板画家。43歳で来日後、印刷機材を輸入して政府印刷物の製版・印刷を指導。その後も有価証券などの図案と製版に従事する。
  明治24年(1891)に公職を退いた後も、キョッソーネは日本に滞在した。明治31年(1898)に東京の自邸で65歳の生涯を終え、今も東京・青山墓地に眠っている。
 なお、キョッソーネの後任として大蔵省印刷局に任官した川村清雄も、後年、写真を利用して福澤先生の肖像画を描いている。
 キョッソーネは日本美術蒐集家としても知られており、死の翌年、彼の膨大なコレクションは、すべて母校であるリグーリア地方美術学校に寄贈された。そして、そのコレクションが整理されて、後年、ジェノバの『キョッソーネ東洋美術館』となる。同美術館には広重、写楽、歌麿、北斎など、一級品の浮世絵をはじめ、屏風、甲冑、刀剣、陶磁器、漆器、仏像などの工芸品300点あまりが展示。収蔵庫にはさらに1万5千点以上が保管されており、世界的にも指折りの日本美術コレクションである。
 国際社会に通用する新しい日本国家建設をめざし、慶應義塾で有為の人材の育成にあたっていた福澤先生は、わが国に新技術をもたらす傍ら、日本の工芸・芸術品を愛し、その価値を西洋に発信したキョッソーネに、どのような感情を抱いていたのだろうか・・・。残念ながら、先生とイタリア人芸術家・技術者が会談の機会持ったという記録は残されていない。
 新札登場後、17年が経つ。その間、日本経済はまさに激動の時代を迎えている。そして現在、わが国の政府は莫大な借金を抱えている。そんな21世紀の日本を見て、生涯、借金を嫌った福澤先生はどのような思いを 抱き、何を言われるだろうか。没後百年の今、あらためて紙幣に描かれた福澤先生の透徹した視線の先をたどってみたい気分である。

一万円札の〝1号券〝はどこに?

一万円札の1号券「A000001A」は貨幣博物館に永久保存されている。それに続く若い番号の紙幣は、福澤先生に縁が深い公的機関に日銀から寄贈された。慶應義塾は「A000002A」。発行日当日、日銀本店会議室で日銀総裁より当時の石川忠雄塾長に手渡された。この貴重な新札は、現在も 三田メディアセンターの貴重書室で厳重に保管されている。なお、郷里・中津市へ「A000001B」、出生地の大阪市へは「A000003A」が贈られている。