メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 三田演説会の歴史

2000/06/20 (「塾」2000年SUMMER (No.225)掲載)
三田演説会は、スピーチ=演説の実践を目的にした日本で最初の本格的な組織であり、
現在に至るまでその活動を続けている。
我が国に「演説」という新しい概念を生み出し、定着させたその歩みについて、時代の動きとともに探ってみたい。
三田演説会は、福澤諭吉を中心に小幡篤次郎、小泉信吉など10余人の義塾の先進者たちによって、演説、討論の研究錬磨の場として明治7年(1874)6月27日に発足した。翌年には三田演説館も完成した。福澤は「演説とは英語にて『スピイチ』と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝るの法なり 」(『学問のすゝめ』十二編)と述べている。今でこそ演説といえば誰でも理解できるが、その当時の日本には、そもそもこの概念は存在しなかった。従って多くの聴衆の前で自分の意見を述べるという「演説」の実践は、そのための具体的な方法を試行錯誤しながらの創造行為にほかならなかった。その経緯は『三田演説日記』などの記録に記されているが、演説の練習を行うにあたって「決して笑っては ならない」と取り決めたというエピソードが、演説創業の苦心を端的に物語っている。
 また、福澤は演説会創始に先立ち「演説」「討論」などの言葉も創り出している。それまでスピーチやディベートに該当する日本語はなかったためである。第1回演説会の前年、明治6年に小泉信吉(のち塾長)がスピーチについて書かれた英文の小冊子を福澤に見せ、その価値を認めた福澤が大意を翻訳し、それを基礎として執筆したものが、翌年刊行されたと思れる『会議弁』である。 このために福澤は、現在では一般的になっているいくつかの言葉を文字通り生み出すことになる。たとえば、「演説」は、福澤の出身藩である旧中津藩で藩士が藩庁に対して意思を表明するための「演舌書」なる書面に由来する。「舌」という語句が俗なために「説」に換えたと福澤本人が述べている。したがって演説は福澤の造語ではないが、旧来の言葉に「スピーチ」という新しい意味と実体を与えたことに大きな意味があった。さらに「ディベート」の訳語を「討論」と定め、「否決」「可決」などの用語が決められた。
三田演説館開館五十年記念演説会 記念撮影
三田演説館開館五十年記念演説会 記念撮影(大正13年5月30日)最前列、杖を持つのが尾崎行雄、向かって左へ福澤一太郎社頭、鎌田栄吉塾長
スタートして3年後の明治10年10月27日に開催された第105回三田演説会記録には「近来演説は愈盛なる方なり」と記されている。これは単に三田演説会だけのことを言っているのではなく、当時の社会情勢を指している。明治10年代前半は、自由民権運動の高まりによって、東京市中ではさまざまな演説会活動が活発に行われるようになっていた。当時の演説者や演説結社の評価を番付評価した記録が残っている。それを見ると慶應義塾出身者の比重が高く、この日本史上初めてといってもいい「演説の時代」において三田演説会が大きな役割を果たしていたことがわかる。なお、初期の帝国議会において慶應義塾出身者が一割を占めていた。その中には、尾崎行雄(「憲政の神様」と呼ばれた明治~昭和期の政党政治家)、犬養毅(のち首相。五・一五事件で暗殺)、井上角五郎 (政治家・実業家)がおり、演説館で鍛えられた彼らの論戦会のハイライトとなっていたという。
 一方、三田演説会も多くの聴衆を集め、コレラ流行などで何度かの中断期間はあったものの、活発に活動を続け、福澤の歿後も絶えることはなかった。
関東大震災後、移築前の演説館
関東大震災後、移築前の演説館(大正12、13年頃)
 大正初期は、前出の尾崎行雄を中心人物とする憲政擁護運動が桂太郎内閣を総辞職に追い込むなど、我が国の民主主義運動の台頭期。自由民権運動に続いて、演説など言論の力が社会を動かす時代となった。
 とはいえ、三田演説会では決して政治的な問題だけではなく、むしろ常に学術演説会であることが標榜されており広く当時の知識人が演壇に立った。記録を見ると、細菌学の野口英世氏、チベット語学の河口慧海氏、地震学の大森房吉氏など、国際的にも活躍する当時の各界第一人者を招いている。
 大正時代は、第一次世界大戦に参戦するなど、日本が国際社会での地位を高めていった時代でもあった。演説会においてもヨーロッパやアジアの情勢などに関する演題が目立つようになる。しかし昭和初期、二・二六事件や五・一五事件などを経て、軍部の独走が進み、言論に対する有形無形の圧迫が加えられるようになった。ついに日中戦争最中の昭和14年10月27日の第580回を最後に三田演説会も中断されることになる。
 第二次世界大戦後、三田演説会が復活したのは、昭和26年7月6日のことだった。折しもこの年、サンフランシスコ講和条約によって、日本はようやく独立国としての地位を確保。ちなみに同年11月26日に開催された演説会では「桑港講和会議をめぐりて」との演題で読売新聞特派員・原四郎氏が、講和会議場取材の経緯についての演説を行っている。
現在の演説館
現在の演説館
 その後、高度成長を経て現在まで、三田演説会は、教育、文化、芸術から政治、経済、マネジメント、科学技術にいたるまで、価値観の多様化に呼応するように多様なテーマを扱って、この6月で672回を数える。
 現代においても教育におけるスピーチやディベートの重要性については度々指摘されている。スタイルや話題は変わっても、福澤諭吉の精神は時を超えて三田演説会に脈々と受け継がれており、その歩みは21世紀に続く。
演説館開館125周年

 明治8年5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。創建当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との間に位置していたが、大正13年に現在地(三田キャンパス南西の稲荷山)へ移築。昭和22年には修復がほどこされた。また、平成7年より約1年半かけて解体修復が行われている。木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物は、昭和42年に国の重要文化財に指定されている。
 開館125周年を迎えた現在も、この三田演説会や福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会などの義塾の公式行事が開かれている。