メインカラムの始まり
[ステンドグラス] 草創期の課外活動をみる ~高まる革新気運の中で~
1999/09/01 (「塾」1999年SEPTEMBER(No.221)掲載)
明治30年前後に慶應義塾に起こった革新の気運は、学術研究面での発展にとどまらず、
塾生間にも広まり、その結果、彼らの手によって大学の活動にふさわしい新しい組織が次々と結成されていった。
文化系の課外活動もその一つであり、学生の修養の場、趣味を生かす場として、
三田仏教会、慶應義塾基督教青年会、英語倶楽部、パレット倶楽部、ワグネル・ソサイエティーなどが組織された。
明治25年にすでに活動を開始していた慶應義塾体育会と共に、
この時期、義塾の課外活動は体育系・文化系の両面で活発になっていった——。
塾生間にも広まり、その結果、彼らの手によって大学の活動にふさわしい新しい組織が次々と結成されていった。
文化系の課外活動もその一つであり、学生の修養の場、趣味を生かす場として、
三田仏教会、慶應義塾基督教青年会、英語倶楽部、パレット倶楽部、ワグネル・ソサイエティーなどが組織された。
明治25年にすでに活動を開始していた慶應義塾体育会と共に、
この時期、義塾の課外活動は体育系・文化系の両面で活発になっていった——。
- 学生の修養の場として
明治30年前後に結成された課外活動団体は、その成立過程や内容によって、学生の教養を深めるための団体および趣味の団体との2系統に大きく分けることができる。両者はのちに、文化団体連盟の有力な構成要素となった。
まず、学生の修養のために組織された団体としては、次の3団体を挙げることができる。
まず、学生の修養のために組織された団体としては、次の3団体を挙げることができる。
仏教青年会
この会の創立は古く、福澤先生の援助のもと、明治23年10月25日に発会式を挙げた。初めは慶應義塾仏教壮年会と称していたが、次いで土曜会と改め、さらに三田仏教会と改称、最後に現在の仏教青年会となった。会合はしばしば福澤邸で開かれ、福澤自身も大乗起信論の講義を聞いたりしている。
同25年4月8日には、他校に先駆けて「釈尊降誕会」を盛大に催し、福澤をはじめ、小幡篤次郎らが出席して演説を行っている。同32年には三田仏教会として再興され、隆盛を極めた。
同25年4月8日には、他校に先駆けて「釈尊降誕会」を盛大に催し、福澤をはじめ、小幡篤次郎らが出席して演説を行っている。同32年には三田仏教会として再興され、隆盛を極めた。
慶應義塾基督教青年会
明治31年9月、文学科・理財科・政治科・普通部・商業学校の学生たちが集まって組織された。
翌年11月には規則を制定し、例会や演説会部本盟連体団化文を開催するなど、少数ながらまとまった活動をする団体として、古くから知られている。
翌年11月には規則を制定し、例会や演説会部本盟連体団化文を開催するなど、少数ながらまとまった活動をする団体として、古くから知られている。
英語倶楽部
発会年月は不明だが、明治28年11月にはすでに秋季大会を催している。実用を主とする英語の研究を目的として、当初は、福澤一太郎(福澤の長男)を名誉会長に、毎週1回英語討論会、毎月1回通常会を開催して、英語の演説・会話を練習していた。
明治33年に再興、組織変更をして大学英語倶楽部に改称、全員を大学部学生に限定したが、同36年、普通部生が組織する英語倶楽部と合併して慶應義塾英語倶楽部となる。
さらに同38年、大学部学生を中心に慶應義塾英語会が設立された。会員は大学部・普通部を問わない塾生有志とし、会則第六条には「本全開会中は一切日本語を用ゆることを許さず、凡て英語を用ゆること」と規定されている。これが、今日の慶應義塾英語会のルーツである。
また、これらとは別に学年単位で組織された英語倶楽部も活発に活動していた。
明治33年に再興、組織変更をして大学英語倶楽部に改称、全員を大学部学生に限定したが、同36年、普通部生が組織する英語倶楽部と合併して慶應義塾英語倶楽部となる。
さらに同38年、大学部学生を中心に慶應義塾英語会が設立された。会員は大学部・普通部を問わない塾生有志とし、会則第六条には「本全開会中は一切日本語を用ゆることを許さず、凡て英語を用ゆること」と規定されている。これが、今日の慶應義塾英語会のルーツである。
また、これらとは別に学年単位で組織された英語倶楽部も活発に活動していた。
- 愛好者が集う場として
趣味を中心とした草創期の団体としては、以下の2団体が知られている。
パレット倶楽部
明治31年に絵画愛好者が集まってできた団体で、同年11月には早くも展覧会を催している。創立当時、福澤から30円をもらって額縁を購入したというエピソードが残っている。
同32年からは、運動会に際して展覧会を催すと同時に、運動会の速報として発行される『三田の花』に挿絵を提供していた。また、絵はがきを描いて売っていたこともあったという。現在まで名称変更もなく続いている数少ない、伝統あるクラブの一つ。
同32年からは、運動会に際して展覧会を催すと同時に、運動会の速報として発行される『三田の花』に挿絵を提供していた。また、絵はがきを描いて売っていたこともあったという。現在まで名称変更もなく続いている数少ない、伝統あるクラブの一つ。
ワグネル・ソサイエティー
音楽愛好者が集まって明治35年に設立され、夏休みには講習全を開いて練習に励み、大学倶楽部の例会に出席して演奏したりしている。本団体も、名称変更なく現在まで続いている数少ない団体である。
以上のように、明治30年代の前半期は、学制改革を契機とした改革気運の中にあり、学生の自主独立の精神は各方面に発展し、学生数の増加と相まって、かなり活発な動きを見せていた。その中でもクラブの創設は、この時代における学生活動の大きな部分を占めていたのである。
以上のように、明治30年代の前半期は、学制改革を契機とした改革気運の中にあり、学生の自主独立の精神は各方面に発展し、学生数の増加と相まって、かなり活発な動きを見せていた。その中でもクラブの創設は、この時代における学生活動の大きな部分を占めていたのである。
100周年を迎えた体育会蹴球部
日本ラグビー100周年’99日英大学ラグビー対抗戦第3戦(慶應義塾体育会蹴球部創部100周年記念試合)慶應義塾大学対ケンブリッジ大学が9月11日(土)14時より、秩父宮ラグビー場(東京)で行われた。翌12日には、三田キャンパスにて記念式典・祝賀会の開催が予定されている。