メインカラムの始まり
[ステンドグラス] 欧州における福澤諭吉の足跡
1999/01/01 (「塾」1999年JANUARY(No.216)掲載)
1861年12月、福澤は文久遣欧使節団の一員としてイギリスの軍艦オーデン号で1年間のヨーロッパ巡遊に旅立った。
使節団一行はインド洋、紅海、地中海を経てマルセイユに入り約半年にわたって
フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの6カ国を見聞している。
今回はその中から福澤ゆかりの4都市を選び、足跡をたどってみた。
使節団一行はインド洋、紅海、地中海を経てマルセイユに入り約半年にわたって
フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの6カ国を見聞している。
今回はその中から福澤ゆかりの4都市を選び、足跡をたどってみた。
パリ
文久遣欧使節団一行は1862年4月7日、マルセイユ、リヨンを経て、パリリヨン駅に到着。ホテルルーブルを宿舎として、4月29日まで約3週間滞在し、その後イギリスヘと往路をたどった。また、帰路にはプロシアからベルギーを通過して同年9月22日にバリ北駅に到着、グランドホテルに宿泊し、10月5日まで滞在した。その間、福澤は病院・植物園・学校・寺院などさまざまな場所を見学、いくつかの記録を残している。
パリは、リヨン駅、北駅、フランス学士院、植物園、国立図書館、マドレーヌ寺院、オペラ座をはじめ、使節団が訪れた当時の建物の多くが現存する街のひとつ。福澤が「西航手帳」を購入した地でもある。
パリは、リヨン駅、北駅、フランス学士院、植物園、国立図書館、マドレーヌ寺院、オペラ座をはじめ、使節団が訪れた当時の建物の多くが現存する街のひとつ。福澤が「西航手帳」を購入した地でもある。
ロッテルダム
イギリス訪間を終えた福澤ら使節団一行は、1862年6月14日にオランダのロッテルダムに船で到着した。港には、日本人の使節団を一目見ようと多くの群集が集まっていた。
第2次世界大戦の戦災によってロッテルダムには当時の面影を伝える建物はほとんど残っていないが、唯一戦禍を逃れた市庁舎や、使節団一行が上陸したといわれる場所を訪れることができる。
第2次世界大戦の戦災によってロッテルダムには当時の面影を伝える建物はほとんど残っていないが、唯一戦禍を逃れた市庁舎や、使節団一行が上陸したといわれる場所を訪れることができる。
ハーグ
使節団一行は、ロッテルダムの次に汽車でハーグヘ向かい、ホテル・ベルビューに入った。オランダ滞在中、福澤たちはこの街を拠点としてアムステルダム、ライデンなどを見学した。現在、ホテルベルビューは別の建物に変わってしまっているが、旧ハーグ駅は当時の外観のまま現存している。
なお、ライデンには幕末に来日したシーボルトをはじめ、日本と関係の深いライデン大学がある。
なお、ライデンには幕末に来日したシーボルトをはじめ、日本と関係の深いライデン大学がある。
アムステルダム
アムステルダムでは,福澤たちは駅からホテルまで馬車を利用した。彼らが訪れた植物園,教会などの建物が当時のまま残っている。
福澤は帰国後、オランダ訪問について「各国巡回中、待遇の最もこまやかなるはオランダの右にいずるものはない。これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。ことにわたしをはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったようなわけで自然に居心がいい」と『福翁自伝』の中で述懐している。
福澤は帰国後、オランダ訪問について「各国巡回中、待遇の最もこまやかなるはオランダの右にいずるものはない。これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。ことにわたしをはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったようなわけで自然に居心がいい」と『福翁自伝』の中で述懐している。