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[ステンドグラス] 三田祭の歴史

1997/11/01 (「塾」1997年JANUARY(No.208)掲載)
慶應義塾の学園祭といえば、〝三田祭〟。
この名称が全塾的な学園祭として定着したのは、比較的新しく、昭和30年代前半のこと。
その間、時代の流れや塾生の意識の変化などから、学園祭の中止、名称変更、復活等、さまざまな変遷があった。
ここでは、学生自治のシンボルともいえる学園祭の歴史を振り返ってみたい。
昭和24年 開催中止となる この年までは、学園祭の名称や開催場所が統一されていなかったが、「三田」が慶應義塾の代名詞であることから、この年「三田祭」の名称のもと、三田を中心に実施する案が出された。しかし大学側と学生側の調整がつかず、最終的には中止となる。
昭和26・27年 独自の三田祭活動
この時期は現在とは異なり、「文連三田祭」や「合同三田祭」など、各団体が独白に運営・実施していた。
昭和28年 95周年三田祭
慶應義塾創立95周年を記念して、全塾自治委員全を中心に実施された三田祭。塾内の各団体、文連、学研連、体育会、全慶連、新聞3パート、経済学部ゼミなどが一同に参加、25,000人の観衆が集まリ、充実した大学 祭となった。
昭和29年 統一三田祭
前年度の合同開催の成功を受けて、「統一三田祭」の名称で実施。ただ、大学祭の統一に対しては各団体の意見は一致したものの、会場問題 (分配等)では意見が大きく分かれ、開催が危ぶまれた時期もあった。しかし、結果的には、30,000人の観衆が集まり、盛況のうちに終えることができた。この年あたりから「三田祭」や「統一」の意義・目的が盛んに論議されるようになった。
昭和32年 義塾祭 慶應義塾の特色を積極的に外ヘアピールし、全塾的な総合学園祭にしたいとの実行委員の意向から、名称を「義塾祭」に変更。
昭和33年 百年祭 慶應義塾創立100年記念行事の最後を飾るイベントとして、日吉キャンパスで実施された。百年祭とのことから、幼稚舎、普通部、中等部も参加、来場者は120,000人にも上った。
昭和34年 三田祭へ 義塾祭から「三田察」へと名称が復活。開催会場も2年ぶりに三田キャンパスに移り、100,000人以上の動員数となった。
昭和36年 再び義塾祭へ 三田が校舎増改築工事のため、「義塾祭」と称して日吉で開催される。
<1>第9回三田祭パンフレット(昭和42年)
<1>第9回三田祭パンフレット(昭和42年)
<2>全慶連特設ステージ(昭和56年/第23回)
<2>全慶連特設ステージ(昭和56年/第23回)
<3>練習風景(昭和56年/第23回)
<3>練習風景(昭和56年/第23回)
<4>特設リングでの催し物(昭和57年/第24回)
<4>特設リングでの催し物(昭和57年/第24回)

<5>サークル発表(昭和57年/第24回)
<5>サークル発表(昭和57年/第24回)
<6>三田キャンパス正門(昭和57年/第24回)
<6>三田キャンパス正門(昭和57年/第24回)

・・・・・そして、1997年

三田祭

日時:11月21日(金)~11月24日(休)
場所:三田キャンパス
テーマ:ひい、ふう、みたさい~出席取るって本当ですか~

本塾学園祭の代名詞。今年で39回目を迎える。今回は松田樹利亜THE COLLECTORSによるコンサートや、竹村健一・栗本慎一郎氏等による講演会をはじめ、公開講義、お笑いライブなど、楽しく充実したイベントが予定されている。

SFC秋祭

日時:11月15日(土)・16日日(日〕
場所:湘南藤沢キャンパス
テーマ:op(=operation)

湘南藤沢キャンパスで行われる地域密着型の学園祭として知られる。6回目を迎えた今年は、ファッションショーや対談、行革スター誕生、コンサート等のイベントや空間芸術、花火大会など、より充実したプログラムを用意してしている。

四谷祭

日時:11月8日(土)・9日(日)
場所:信濃町キャンパス

今年で20回目を迎える。今回は、医
学部体育会による模擬店、文化団体による活動報告をはじめ、クラフ対抗ゲーム大会、ダンスパーティ、ミスコン、タレントによるライフ、講演会等の企画を予定。なお、医学部は三田祭にも参加することになっている。