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[ステンドグラス] 変わりゆく三田

1997/03/01 (「塾」1997年MARCH(No.203)掲載)
明治4年(1871)にキャンパスを移転して以来、義塾のホームグラウンドとなっている「三田」は、
「①東京都港区の1地区。芝公園の南西に当たり、慶應義塾大学がある・②慶應義塾大学の俗称」——と、
広辞苑(第4版)にも載るほど、義塾の存在や歴史を語る上で欠かせないキーワードとなっている。
北・西は古川、東は東京湾を境に、小山台・三田台と呼ばれる南北に伸びた台地状のエリアは、
三田、田町、豊岡町、綱町、小山町、赤羽町、松本町、四国町などの街並みから成り、
平成の今日にいたるまで、義塾社中はもちろん一般の人たちにも親しまれてきた東京の名所の一つである。

芝新銭座から三田へ

 三田周辺が大きく発展したのは江戸時代に入ってからで、幕府誕生によって三田台地北部や、南部の東西には武家屋敷が広がり、今の三田通りをはさんで町屋が形成されていった。また、台地縁辺には春日神社、天祖神社などの神社が点在した。
 明治維新以後、近代産業の発達とともに、これらの地域も変化し、本塾がこの地に移転してきた明治4(1871)年には、大名屋敷の多くは旧大名、華族、政治家、富豪などの邸宅地になっていた。海が見える眺望の開けた高台で、自然が豊富に残り、昼間でも森閑とした場所だったという。

移転後の変化

 本塾の移転後は、元の三田1・2丁目(現三田2丁目)に書店・飲食店・文房具店・洋服店などができ、学生街(商店街)として発展した。以後、三田通りに面したこの辺りは、三田で最もにぎやかな場所となる。また、網町には、明治36(1903)年に3800坪の網町運動場が設けられ、同年11月には日本の野球史上記念すべき慶早戦第1回戦が行われた。また、同年路面電車が開通。三田停留所の前には営業所が設置され、昭和44(1969)年の廃止まで、都民や塾生の足として親しまれることになる。
 一方、田町周辺は鉄道が通ったこともあって、工業地へと変化していった。当時の二大煙草メーカーの一つ村井兄弟商会が設立され、その頃は東京の大建築物の一つに数えられていた煙草専売局の工場や森永の製菓工場があったのもこの辺りである。
 昭和に入ってからは、10(1935)年頃に本塾の敷地の南端に新しく東西に広い切り通し道路が開通したのも、大きな変化だった。それ以前の三田通りは、道幅が狭く、片側にはその半分位の幅の大溝が赤羽橋あたりまで走っていた。

戦後から今日に至るまで

 三田は空襲による被災地が比較的少なく、終戦直後の街並みは戦前とあまり変わらなかった。だが、高度成長期には個人の大邸宅が次第に失われ、代わって外国公館やマンションが増えていった。同様に、三田通りや三田台町・寺町・綱町の一部を除いて、広い通りの両側はビル化(高層化)の傾向をたどり、三田山上から海は臨めなくなった。そして、現在は道路拡張のため、「幻の門」の周辺も昔の面影が失われようとしている。これは、三田界隈の二十世紀最後の大きな変化となるだろう。

<地図見る変遷史>

明治9年
明治9年
昭和33年
昭和33年

<三田通り>

明治中頃
明治中頃
昭和15年
昭和15年
現在
現在

<田町駅>

明治42年頃の山手線田町駅附近(東京都区立みなと図書館所蔵)
明治42年頃の山手線田町駅附近(東京都区立みなと図書館所蔵)
昭和初期の田町駅前
昭和初期の田町駅前
現在の田町駅附近(撮影:畔田藤治)
現在の田町駅附近(撮影:畔田藤治)