メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 大学院の歴史

1997/01/01 (「塾」1997年JANUARY(No.202)掲載)
今でこそ、文系・理系両分野のさまざまな学術研究をカバーするスケールの大きな「総合大学院」として国内はもとより、広く世界にその名を知られている本塾大学大学院———
だが、今日に至る発展の歴史は、決して平坦な道のりばかりではなかった
本塾の最高学府がどのような過程を経てきたのか、改めてここで振り返ってみたい

黎明期

<1>昭和初期の研究室風景(塾監局内)
<1>昭和初期の研究室風景(塾監局内)
<2>小金井キャンパス時代の工学部の研究室風景
<2>小金井キャンパス時代の工学部の研究室風景
 福澤先生が逝去された翌年、明治35年の末頃から、本塾に大学院設置を求める気運が高まってきた。それまでは、どちらかといえば実社会で活躍する人材を多く世に送り出してきた義塾内に、大学とは様々な人材を社会に供給する教育機関であり、学者もまた養成すべきであるとの声が出始め、学生側からも幾度となく要望が提出された。当時、学生の出していた雑誌の社説「所謂学者のオーヴァー・プロダクションとは何ぞや」「学制改革論」から、当時の学生たちの大学院設置に対する熱意を知ることができる。こうした気運のなか、明治36年の評議員会では保留に終わったものの、明治39年の第7期第4回評議員会で再び大学院設置が議題にのぼり、ついに可決された。当時の鎌田塾長は「研究心を発掘すべし」(『慶應義塾学報』第101号・現在の『三田評論』)の中で、この大学院設置が 福澤先生の遺志を継ぐものであり、官立学校に見られる弊風を廃して自由研究の気風を養成し、一意専心に学問研究に貢献する人物および豊富な知識と十分な素養を社会で生かせる人物を育成しなければならぬとその趣旨と理想を述べている。

戦時下の大学院・小泉黎長の所見

<3>昭和28年頃の大学院校舎(三田第三校舎)
<3>昭和28年頃の大学院校舎(三田第三校舎)
 順風満帆に見えた最高学府の教育体制も、第二次世界大戦下の文教政策のもとでは、修業年限が短縮がされるなど大きく後退した。昭和18年、政府は戦力増強に直接関係した研究に力を入れるため「大学院又は研究科の特別研究生」制度を施行。しかし、この制度は最初、官立大学に限る趣旨であったため、当時の小泉塾長は文部省にあてて「大学院問題所見」を提出。その中で、官私の差別は決して大学院の整備拡充にはつながらず、かえって学術の進歩を遅らせることになると訴えた。この所見は、大学院本来の姿を説くとともに、官学偏重主義に対して私学の立場を堂々と述べたものとして、今もなお高く評価されている。同年の「大学院問題に関する協議会」では、各官立大の総長・学長および慶早の塾長・総長が出席して意見を交換、私学では義塾と早稲田の2大学に新しい大学院が認められることとなった。

新制大学院誕生

 戦後は新しい政治体制のもとで大学院に対するさまざまな規制が緩和され、昭和24年には、大学設置審議会が「大学院設置審査基準要項」を制定した。この基準にもとづいて本塾では、第17期第45回評議員会で大学院設置の件を可決、翌昭和26年に新制大学院が発足した。発足当時の研究科は、文学研究科、経済学研究科、法学研究科、社会学研究科、工学研究科の5つであった。

21世紀への新たな動き

 創設以来、今日に至るまで本塾大学大学院は、私学系大学院のリーダーとして日本の学術研究・大学院教育に大きな役割を果たしてきた。新制大学院になってからも、より充実した教育・研究環境の整備をめざして研究科・専攻・課程の増設・改組を実施して大学院全体の活性化に努め、今では9研究科・39専攻を擁する、わが国有数の総合大学院にまで成長している。
 さらに、ここ数年来は長期的展望のもとで大学院の高度化・多様化を目標とした組織改革が推進中であり、現段階では経済学研究科(平成9年)、理工学研究科(平成12年)の改組が決定、本塾大学大学院は21世紀の新しい最高学府像の実現に向けて大きく変わろうとしている。
<1>今日の湘南藤沢大学院研究所棟
<1>今日の湘南藤沢大学院研究所棟
<2>工学研究科第一号の修了証(佐藤 武名誉教授)
<2>工学研究科第一号の修了証(佐藤 武名誉教授)
<3>今日の三田大学院校舎
<3>今日の三田大学院校舎
明治36年 ●第6期第11回評議員会で塾長提出の案件「研究科設置の件」を協議
明治39年 ●第7期第4回評議員会において大学院設置・大学院規則を議決
昭和18年 私学のうち義塾と早稲田の両大学が大学院を設置
●初年度は特別研究生、文1名・経2名・法1名・医10名が認可
●特別研究生を含め文36名・経済42名・法46名・医62名、合計186名の定員増を申請
昭和19年 ●戦時下において定員数を制限。医10名のみに
昭和20年 ●定員数を理科系学科(医7名・エ3名)に限定。第2期特別研究生に経済2名・医5名
昭和21年 ●文部省令
●第1期文科系特別研究生4名・理科系10名・第2期理科系5名が選定
昭和24年 ●大学設置審議会が「大学院基準」を承認、「大学院設置基準要項」を制定
昭和25年 ●第17期45回評議員会で義塾の大学院設置の件を可決、申請
昭和26年 ●新制大学院認可。文学(哲学・史学・国文学・英文学・仏文学専攻)、経済学(理論経済学・経済史・経済政策・財政金融・経営会計専攻)、法学(民事法学・政治学専攻)、社会学(社会学専攻)、工学(機械工学・電気工学・応用化学専攻)各研究科の修士課程(一年以上在学)を発足
昭和28年 ●文学・哲学・史学・英文学・仏文学専攻)、経済学(経済学専攻)、法学(民事法学・政治学専攻)、社会学(社会学・心理学専攻)、工学(機械工学・電気工学・応用化学専攻)各研究科に博士課程(年限3年)を、また社会学研究科修士課程に心理学専攻を増設
昭和30年 ●文学研究科(博)国文学専攻を増設
昭和31年 ●医学研究科博士課程(生理系・病理系・予防医学系・内科系・外科系)を増設
昭和32年 ●文学研究科・独文学専攻(修・博)増設
昭和36年 ●社会学研究科(修)に教育学専攻を増設
●商学研究科(修)を新設(商学・経営会計専攻)。それに伴い経済学研究科の財政金融・経営会計専攻を廃止
●工学研究科(修)に計測工学専攻を設置

昭和38年 ●法学研究科公法学専攻(修・博)を増設
●社会学研究科(博)に教育学専攻を増設
●商学研究科に商学専攻(博)を設置
●工学研究科に管理工学専攻(修・博)、計測工学(博)を設置
昭和39年 ●商学研究科博士課程に経営学会計学専攻を増設
昭和42年 ●文学研究科に図書館・情報学専攻(修)を増設
昭和50年 ●文学研究科に図書館・情報学専攻(博)、中国文学専攻(修)を増設
昭和51年 ●工学研究科に5年生博士課程と共に数理工学専攻を開設
昭和52年 ●文学研究科に中国文学専攻(博)を増設
昭和53年 ●経営管理研究科修士課程を新設
昭和60年 ●工学研究科から理工学研究科へ改組。物理学・化学専攻(修・博)を新設、数理工学を数理科学専攻に改組
平成元年 ●理工学研究科に計算機科学・物理化学・生体医工学専攻(修・博)を開設
平成2年 ●経営管理研究科に博士課程を開設
平成6年 ●医学研究科医科学専攻(修)を設置●政策・メディア研究科(修)を新設
平成8年 ●政策・メディア研究科(博)を新設