メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 慶應義塾と東横線

1996/11/01 (「塾」1996年NOVEMBER(No.201)掲載)
大正末期、慶應義塾では三田の校地が手狭になってきたため、
一部移転の候補地を探していたところ、昭和3年、東京横浜電鉄(現東急)から
沿線の日吉台の土地約7万坪を無償提供するとの申し出があった。
検討の末、この地に購入分・借地・無償提供分を合わせ、約13万坪を確保。
これが日吉キャンパスの始まりである。このように義塾との関係は古い東急、
そして、ともに発展してきた東横線の歴史を振り返ってみよう。

開通当時の日吉駅
開通当時の日吉駅
写真提供:東京急行電鉄広報室
「東急電鉄発祥之地」碑(日吉)
「東急電鉄発祥之地」碑(日吉)
撮影:畔田藤治
 現在の東急グループは、明治文化の先覚者・渋沢栄一が提唱した「田園都市」づくりを推進するために大正7年に設立された田園都市株式会社に、一つの起源を求めることができる。街づくりの中心となったのは現在の田園調布、洗足付近だが、当時は交通の便が悪かったため、会社自身が交通機関を設けてこの地域と都心をつなごうと、大正11年姉妹会社として目黒蒲田電鉄を設立。大正12年に目黒蒲田線の目黒-丸子間が開通した。
 一方、明治43年に設立された武蔵電気鉄道は東京と横浜を結ぶ鉄道の建設をめざしていたが、大正13年五島慶太の決断で田園都市株式会社とともに事業を展開することとなり、社名も東京横浜電鉄と改称した。そして丸子多摩川(現多摩川園)-神奈川(現横浜付近)の建設に着工し、大正15年、目黒蒲田線との接続により神奈川線(目黒-神奈川間)の営業開始にこぎつけた。この工事のスタートが日吉であったため、日吉駅の近くには「東急電鉄発祥之地」の記念碑がある。

 その後東京横浜電鉄では、昭和2年、渋谷-丸子多摩川間が開通。渋谷と神奈川を結ぶ直通ラインの名称を「東横線」とした。東横線の開通とともに沿線開発が活発化し、乗客も急増していく。昭和7年、神奈川-桜木町間が開通、東横線は全通となった。また、昭和10年には急行の運行も始まリ、業績も次第に上昇していった。今では信じられないことだが、戦時中は陸上交通事業調整法に基づき、現在の京浜急行、小田急、京王帝都の各社を合併、社名を東京急行と改め、"大東急〟と呼ばれたこともある。(これは昭和23年に各社に分離している。)
 さて、昭和29年に同電鉄の歴史の中で大きなエポックとなる車両が登場する。5000系と呼ばれたこの車両は、航空機の技術を導入して軽量化された最新鋭車。曲面を多く取り入れたスタイル、ライトグリーンのカラーなどから「青ガエル」の愛称で親しまれ、今も鉄道ファンの間では人気が高い。続いて昭和33年には、日本初のステンレスカーとして5200系がデビューした。この車両は着色せず銀色のままで、外板を波形に成型しため、付いたニックネームは「湯タンポ」。これを契機として、その他の鉄道各社でも風雨による腐食や劣化に強いステンレスカーを次々に導入していくこととなった。
 昭和39年、東横線は地下鉄日比谷線との相互直通運転を実施し、都心へのアクセスに一層の利便性を高め、現在に至っている。豊かな街づくりと鉄道が一体化した計画・開発によって発展してきた東横線。沿線の成熟した街並みの中に、慶應義塾日吉キャンパスも自然に溶け込んでいる。東横線は、義塾関係者にとって欠かすことのできない交通手段であり、複々線化と目蒲線の改良、都心側地下鉄新路線との相互乗り入れによって、さらに便利になる今後に期待は大きい。
<1>自由が丘駅前(昭和33年)
<1>自由が丘駅前(昭和33年) 写真提供:東急急行電鉄広報室
<2>渋谷駅ハチ公口(昭和34年)
<2>渋谷駅ハチ公口(昭和34年) 写真提供:東急急行電鉄広報室
<3>ペンマーク付日吉電車(渋谷駅・昭和10年頃)
<3>ペンマーク付日吉電車(渋谷駅・昭和10年頃) 杵屋栄二写真集「汽車電車」(プレス・アイゼンバーン発行)より

<4>昭和34年の日吉駅と〝青カエル〟5000系車
<4>昭和34年の日吉駅と〝青カエル〟5000系車 写真提供:東急急行電鉄広報室
<5>日本初のステンレスカー5200系
<5>日本初のステンレスカー5200系 写真提供:東急急行電鉄広報室