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[ステンドグラス] 卒業式の今昔

1996/03/01 (「塾」1996年MARCH(No.196)掲載)
まもなく平成7年度の卒業式が行われるが、創立当初の慶應義塾には、卒業式も卒業という制度もなかった。
義塾で最初の卒業生が出たのは三田移転後の明治7年、さらに、最初の卒業式が行われたのは明治26年になってからだった。
では、義塾における卒業式の始まりと変遷をたどってみよう。
 草創期の慶應義塾には、卒業という制度がなかった。幕末の鉄砲洲時代はもちろん、塾舎を芝新銭座へ移して慶應義塾と名のるようになってからも、明治4年に三田へ移転した当時も、卒業の制度や卒業式は存在しなかった。
 新銭座時代~三田移転のころは、読むべき書物とその順序が定められ、そこに何段階かの等級が設けられていた。定められた課程を終えれば一応課業は終わることになっていたが、課程を終えた者は後輩を指導しながら自らは独学を続ける、いわゆる半学半教の形が学問を修めるうえで重視されていた。厳しい見方をすれば、学問を真に成就するのは極めて困難なことであり、さらにいえば学問に成就はないという考え方から、いわゆる「卒業」ということが考えられなかったのである。
 卒業の制度ができたのは明治6年。学則改定により「一、此学校にて本等の業を全く終りたる者へは成業の免状を与ふべし。一、事なくして退学する者へは其等級に従で卒業の証明を与ふべし 。」と、課程を終えた者に成業免状を、退学者には等級ごとに卒業証書を与える規定が生まれた。今日でいう卒業は「成業」と呼ばれ、「卒業」は各等級を学んだ者に対して用いられた。翌7年、この規定に従い、義塾の第1回卒業生7名が出た。
 その後、明治23年の大学部発足を経て、同26年に大学部第1回卒業式が挙行された。当初、卒業式は三田演説館で行われたが、大正4年には、三田山上に開館した大講堂が会場となった 。しかし、昭和20年には空襲のため大講堂が焼失。やむなく卒業式は屋外の三田山上広場(現在の中庭)で行われることとなった。昭和33年には創立100周年に際して日吉記念館が完成し、翌34年からはここで卒業式が行われ、今日にいたっている。
 なお、卒業後25年と50年にあたる塾員の卒業式招待は昭和28年に始まり、今日まで続けられているが、新卒業生と塾の数が年々増えて日吉記念館の収容能力が限界に達したため、平成5年度卒業式からは卒業後25年の塾員のみを卒業式に招き、50年の塾員は入学式に招待するようになった。アメリカでは以前から、卒業後25年の同窓生を卒業式に招待する大学があるということだが、日本ではおそらく義塾が最初の例であろう。
<1>第1回卒業証書
<1>第1回卒業証書
<2>答辞
<2>答辞
<3>大学理財科第1回卒業生
<3>大学理財科第1回卒業生

<4>大学文学科第1回卒業生
<4>大学文学科第1回卒業生
<5>三田山頂での屋外卒業式(昭和28年)
<5>三田山頂での屋外卒業式(昭和28年)
<6>大講堂での卒業証書授与式(昭和10年)
<6>大講堂での卒業証書授与式(昭和10年)

<7>今日の卒業式(平成7年3月)
<7>今日の卒業式(平成7年3月)
<8>大学法律科第1回卒業生
<8>大学法律科第1回卒業生