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[ステンドグラス] 福澤先生~誕生日・雪池忌~

1996/01/01 (「塾」1996年JANUARY(No.195)掲載)
1月10日は福澤諭吉の誕生日である。
毎年この日、慶應義塾では「福澤先生誕生記念会」を行なって祝う。
また、2月3日の命日は「雪池忌」と呼ばれ、麻布山善福寺の墓前に詣でる教職員・塾員・塾生の列が続く。
長逝から95年。福澤先生は今も、義塾社中一人ひとりの胸の中に生き続けているのである。
 慶應義塾の新年は、1月10日に教職員・塾員・塾生たちが三田山上に集う「福澤先生誕生記念会」で始まる。これは、義塾の創立者である福澤諭吉をしのび、その遺業をたたえて、福澤家の方々をお招きして義塾社中で誕生日を祝う行事である。
 福澤が大阪の中津藩蔵屋敷に生まれたのは天保5年12月12日で、陽暦の1835年1月10日にあたり、明治44年にこのことが確認されてから福澤家では毎年1月10日に誕生を祝うこととなった。それまで義塾では福澤の命日を記念日としていたが、これにならって大正3年1月10日に改め、以後は毎年この日に行事が催されるようになった。その後、昭和4年には蔵屋敷のあった大阪・堂島玉江橋北詰に鋳銅製の誕生地記念碑が建てられ、後に戦時下の銅鉄製品回収のため供出を余儀なくされたが、昭和29年に再建された。
福澤先生誕生地記念碑(大阪堂島島玉江橋北詰)
福澤先生誕生地記念碑
(大阪堂島島玉江橋北詰)
三田山上にあった福澤本宅
三田山上にあった福澤本宅
 2月3日は「雪池忌」と呼ばれる命日である。福澤は明治34年(1901)のこの日、現在の三田図書館(新館)東側にあった義塾内の自邸で、脳溢血のため亡くなった。享年68歳であった。葬儀は福澤の心を尊重して塾葬とせず、福澤家の菩提寺である善福寺で行われ、霊柩は上大崎の墓地に運ばれて手厚く葬られた。この墓地はもとは正福寺という芝増上寺の末寺のあったところだが、福澤が亡くなったころは、それが廃寺となった跡を隣の本願寺が管理していた。その後明治42年に、高輪泉岳寺近くにあった常光寺という増上寺の末寺がこれを譲り受けて移転してきたため、以来、この地は"常光寺の墓地〟として塾関係者に長く親しまれてきた。
 ちなみに、福澤家が浄土真宗の信徒だったにもかかわらず福澤が浄土宗の常光寺に埋葬されたのは、生前に自らこの地を墓所に選定していたためである。しかし、菩提寺と墓所が別々で宗派も異なるというのはいかにも不自然であり、福澤家では昭和52年に善福寺への移葬を行い、常光寺の墓所跡には義塾によって「福澤諭吉先生永眠之地」の記念碑が建てられた。また、昭和46年には大学卒業50年にあたる大正10年三田会により、三田移転100周年の記念として三田山上の福澤邸跡に「福澤諭吉終焉芝地記念碑」が建てられた。
<1>福澤先生の棺を送る塾生たち(現在の幻の門付近)
<1>福澤先生の棺を送る塾生たち(現在の幻の門付近)
<2>福澤諭吉終焉之地記念碑(三田)
<2>福澤諭吉終焉之地記念碑(三田)
<3>2月3日の命日に墓前で詣でる塾生(麻布山善福寺)
<3>2月3日の命日に墓前で詣でる塾生(麻布山善福寺)

「雪池忌」墓参のご案内

 本文で紹介しているように、来る2月3日(土)は本塾の創立者・福澤諭吉先生のご命日「雪池忌」です。毎年この日には、幼稚舎から大学院までの塾生をはじめとする多数の義塾社中が麻布山善福寺の墓前 に参り、早朝から参詣者の列が絶え間なく続きます。これは塾生たちの間に「福澤先生の命日にお参りをすると落第しない」という噂が言い伝えられていることにもよりますが、先生が亡くなってからすでに100年近い年月が経過しているにもかかわらず今日なお多くの塾生が自らの意思で創立者の墓前に参詣するのは、慶應義塾ならではのすばらしいならわしの一つといえるでしょう。
 麻布山善福寺は下図のとおり、三田キャンパスから徒歩でもいかれるところに位置しています。ぜひ先生の墓前に参詣してください。

●麻布山善福寺(港区元麻布1—6—2)三田キャンパスから徒歩約20分。
 または田町駅東口から新宿駅西口行バスに乗車、「二の橋」下車徒歩2分。