福澤諭吉が見た「万博」幕末期、福澤諭吉は幕府使節団の一員として渡英し、折しも開催中だったロンドン万博を体験している。帰国後、福澤は『西洋事情』で自ら見聞した「万博体験」とその開かれた文化交流の精神を紹介した。福澤が万博に見たその精神が、どのように現代に受け継がれ、未来へとつながっているのか?世界中から多くの来場者を集めた「大阪・関西万博」が閉幕した今、あらためて光を当てる。多くの国々が参加する万国博覧会︵万博︶の歴史は、1851年にロンドンのハイドパークで開催された博覧会に始まる。英国は1862年にも万博を開催し、その会期中に徳川幕府の遣欧使節団が渡英。﹃西洋事情﹄出版の翌年、1867年のパリ万博で日本は初の出展を果たした︵徳川幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩も独自に出展︶。会場では日本の陶磁器や漆、和紙といった工芸品や浮世絵などの美術品がヨーロッパの人々の目を奪い、これが﹁ジャポニスム﹂の流行など日本文化が世界に広がる大きな契機となったと言われている。日本で万博が開催されたのは二つの世界大戦をはさんでそれから100年以上後のこと。1970年、アジア初の万博が﹁人類の進歩と調和﹂をテーマに、奇しくも若き福澤が蘭学などを学んだ緒方洪庵の﹁適塾﹂使節団の人々はロンドン万博を訪れ、これが日本人と万博の”出会い“となった。使節団に通訳として参加していた福澤諭吉は、万博会場で大英帝国の圧倒的な国力と文明を目の当たりにして深い感銘と衝撃を覚えた。帰国後に書かれた﹃西洋事情﹄初編ではその盛況ぶりを記すとともに、万博は単なる見世物ではなく新技術や新製品を世界に向けて発信する場であり、文化交流や技術革新を促進する重要な催しであるとその意義を解説した。さらに﹁博覧会は元と相教え相学ぶの趣意にて、互に他の所長︵長所︶を取て己の利となす﹂と記し、万博は﹁智力工夫の交易﹂であり、世界の人々が国境を越えて学び合うことの重要性を強調している。塾 AUTUMN 2025NO.328 ステンドグラス万博の盛況ぶりと意義を日本人に伝えた福澤諭吉時代とともに変化する日本と万博の関わり方161862(文久 2)年、幕府遣欧使節団の随員としてヨーロッパ歴訪の際にロンドンで撮影(福澤研究センター提供)
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