パティシエになりたかったのです。当時ケーキ作りにハマっていて、高校卒業後は製菓学校に通いたいと思っていました。しかし親からは﹁大学は行っておきなさい﹂と言われ、将来パティシエ修業でフランスに行くことを踏まえてフランス語を勉強できる大学に行こうと、いくつかの大学のフランス文学科を受験しました。その中で慶應義塾の文学部だけが、2年生にあがるまで専攻を決める猶予があり、パティシエの夢にも少々迷いがありましたから、猶予期間のある慶應義塾に進学したのです。││大学入学後は、演劇サークル﹁創像工房in front of.﹂で活動をされていました。栗田 150人ほどが所属し、年間約10公演も上演する大所帯なサークルで、一つの劇団というよりは複数の演劇ユニットが緩やかにつながっているような団体でした。夏には1年生が先輩方から音響・照明・舞台装置などのスタッフワークを実践的に学ぶワークショップ公演という機会があり、みんながそれぞれ自分のセクションを決めていく中、私はなかなか選ぶことができず、気づけば残っていた9塾 AUTUMN 2025NO.328 就職活動の絶望の淵で「宝塚」と奇跡の再会一度会っただけの私のヘアスタイルをよく覚えていらしたなとびっくりしました。やはり一流の演出家、舞台人ともなると人間観察力と記憶力がすごいんだなあと思いましたね。││いつ頃から栗田さんはエンターテインメント業界への憧れを持たれるようになったのですか。栗田 憧れはありましたが、自分はあくまでも受け取って楽しむ側だと思っていました。小学生の頃は部活もなく時間だけはたっぷりありましたから、新しく始まるテレビドラマの初回はすべてチェックして、その後面白いと感じたドラマだけを見続けていました。特に宮藤官九郎さんの作品が大好きで、彼のドラマは全て見ています。同じくドラマ好きの母が見ていた山田太一作品など、古いドラマも一緒に見ていましたね。ちなみに祖父は洋画やオペラが大好きだったので、エンターテインメント好きの血筋なのかもしれません。││その頃は将来自分が舞台の演出や脚本の仕事をすることになるとは考えていなかったのですか。栗田 全く考えていませんでしたが、演劇や映画の脚本を読むのは好きでした。高校生の頃、私には全く違う夢があり、ぐず決断しあぐねることで書く側に追い込んでいったのだと思います。生まれて初めて書いた脚本でしたが、ビギナーズラックとでも言いましょうか……幸いにも選ばれ、上演されました。││それが栗田さんにとって初めて上演された脚本作品になったわけですね。栗田 はい。慶應義塾職員で演劇ファンの方のブログでほめていただいたりして、それまでの自信のなさや恥ずかしさが薄れてゆき、演劇にのめり込んでいきました。その後は早稲田や青年団など学外の演劇団体でも活動したり、映画を撮ったりもしました。とはいえ将来の仕事としてエンタメの世界を具体的に考えていたわけではなく、あくまでも目の前の公演を良いものにしたいと夢中になっていただけでした。学部は結局フランス文学ではなく、枠は脚本のコンペ枠だけでした。今にして思えば、脚本は書いてみたかったけれど自信がなく、恥ずかしい気持ちのあった自分を、ぐず早稲田大学演劇倶楽部(通称:エンクラ)の公演に客演として出演した際の一幕(前列中央が栗田さん)
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