江次塾長に手渡された。戦後復興の中で、﹁日吉台地下壕﹂の存在は長く忘れ去られていた。まずその存在に注目したのは中高生たちだった。最も古い記録では1958︵昭和33︶年の慶應義塾普通部生徒が労作展の展示で取り上げ、11年後の1969︵昭和44︶年には慶應義塾高等学校の文化祭﹁日吉祭﹂で生徒有志が研究発表を行い、その成果は後に小冊子﹃わが足の下﹄にまとめられた。それによると﹁高校に入学して校舎の裏の谷に地下壕の入り口があるのを発見した。︵中略︶内部の様子を詳しく知るために、自分たちで地図を作りながら歩き回った﹂とある。生徒たちは入坑許可を得て内部を探索・測量するだけでは飽き足らず、当時を知る関係者への聞き取りも行っている。本格的な調査・研究が始まったのは80年代半ばのことだったが、当時最も有力な資料となったのは高校生の調査記録﹃わが足の下﹄だった。今世紀に入ると考古学による学術調査も始まり、大鍵“が当時の潮田”塾 SUMMER 2025NO.327 ャンパス外部には艦政本部地下壕も作られ、これらをまとめて﹁日吉台地下壕﹂と呼ぶ。1945︵昭和20︶年4月、日吉キャンパスは空襲によって工学部校舎の約8割が焼失した。同年8月14日に日本は連合国軍に無条件降伏を決定。米軍が最初に日吉キャンパスに足を踏み入れたのは東京湾上の戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印の2日後の9月4日と言われている。同8日には﹁日吉軍事占領の命令書﹂が渡され、米軍による日吉キャンパス接収が始まった。接収直後から当時の渉外室や塾員有志の三田リエーゾンクラブによる米軍への度重なる返還交渉、さらに当時の学生新聞﹃三田新聞﹄でほぼ毎号キャンパス返還に関する特集記事が組まれた。こうした慶應義塾一丸となった返還への取り組みがようやく実を結び、1949︵昭和24︶年、米ソ対立による占領政策の転換を背景に、6月27日に接収解除が決定。同年10月1日の返還式では、返還のシンボルとして米軍より金色木製の戦争や平和について考える拠点として現在も研究が続けられている。日吉キャンパスの地下に、80年前の戦争の痕跡﹁日吉台地下壕﹂が今も存在している。そのことから目を背けるのではなく、今から56年前に知的好奇心によって調査研究に取り組んだ中高生たちの営為は、まさに学びの原点と言える。塾生は、自分たちの﹁足の下﹂にも目を向けつつ、自由に学び、研究できることの意味を心に刻みながら、日々の活動に取り組んでもらいたい。今も残る「日吉台地下壕」は平和への思いを巡らす拠点23大学に残る最古の地下壕の測量図(福澤研究センター提供)キャンパスの返還式で手渡された木製の大鍵( 福 澤 研 究 セ ンター提供)地下壕入口現在の地下壕内作戦室跡。左は暗号室・電信室への通路
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