塾_327号_夏
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が、そして、11月18日、OBと学生からなる全早慶戦が神宮球場で開催された。意によって実現したものであるが、虚脱感を抱えた国民にとって、明るいニュースであった。後に慶應義塾に入学し、ミュンヘンオリンピック男子バレーボールの優勝監督にもなった故松平康隆氏は、当時旧制府立中学の4年生で球場にかけつけた。満員のスタンドに「生きている、ああ死ななくてすんだ」と感じ、「私に終戦を一番感じさせてくれたのが、あの早慶戦だった」と述懐している。戦が復活する。復活した六大学野球は、戦後の野球ブームを生み出すことになった。実際に、この時期にさまざまな野球雑誌が創刊されたが、いずれも六大学野球を大きく取り上げている。また、子供たちに広く愛読された月刊誌『野球少年』の表紙には、早慶をはじめ六大学の選手たちの姿が多く第二次世界大戦の敗戦から間もない昭和この全早慶戦は、早慶野球部関係者の熱そして、昭和21年春、六大学野球リーグ描かれていて、そのブームが子供たちにも及んでいたことをよく示している。ちなみに、当時の野球かるたには、「けいおうけいおうりくのおうしゃ」(けの札)、「みやこのせいほくわせだのもりに」(みの札)とある。六大学野球復活は、戦地や勤労動員先から戻ってきた各校の学生たちの気分、学園の雰囲気にも大きな意味を持つものとなった。医学部の学生で応援指導部員であった故野崎繁博氏から聞いた話は印象深い。戦争が終わっても塾生たちは目の前の生活で精いっぱい。キャンパスに活気を取り戻すにはどうしたらよいか。部員たちは思案する中で、それには早慶戦をするのが一番だと、復活早慶戦の実現に、そしてリーグ戦の応援指導に努力したのであった。その取り組みは「学園復帰運動」であったという。実際に、応援指導部が昭和21年11月に出版した『慶應歌集』の序文には「戦争は終わった。緑の色濃い神宮外苑の芝生に坐して六大学野球選手のプレーをじっと見つめる時、吾々は戦争の終わった(ことを)今更の様に身に泌みて感じさせられる。戦争は終山や内う慶け太たちまい塾 SUMMER 2025NO.327        常任理事・看護医療学部 わった。学生は学園へ、吾々に与えられたし課題はこの一語に盡つきる」とある。六大学野球の復活で、各校で新たな歌も生まれた。慶應義塾では、「見よや見よ自由の先駆われ」「塾祖の理想世に敷かん」と歌った『我ぞ覇者』、「我等が若き力以て理想の祖くに国を打建てん」と歌った『慶應讃歌』等が作られた。慶應義塾は、戦時中は福澤の自由主義の学校としてさまざまな抑圧を受けた。それだけに新たな時代に塾の理想を実現するのは若き塾生たちであると期待するこの歌詞の切実さは、今想像する以上に大きなものがあったであろう。応援の雰囲気と共に歌からも塾生たちは大きな力を得たに違いない。慶應義塾は、三田、信濃町等で甚大な空襲の被害を受け、日吉もGHQに接収され戦後の復興には苦労することになる。その復興に弾みをつけたのは、昭和22年の創立作り実現に協力したのも、復活した六大学野球を支え、この歌集の編集に尽力した塾生たちであった。教授六大学野球復活ではじまった戦後復興1190年記念式典であったが、このきっかけを20年10月28日、六大学OBによる紅白試合

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