塾_326号_春
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應義塾関係の戦没者追悼のため、﹁昭和7年三田会﹂の卒業25年記念として寄贈されたもの。台座には、戦時中の塾長だった小泉信三による碑文﹁丘の上の平和なる日々に征きて還らぬ人々を思ふ﹂が刻まれている。1998︵平成10︶年には、﹁還らざる学とも友の碑﹂を建立。台座には、2014︵平成26︶年に慶應義塾関係戦没者名簿が納められた。また、メディアセンター地下1階には、戦没学生慰霊像﹁わだつみのこえ﹂︵1950年・本郷新︶がある。1949︵昭和24︶年に完成した﹁学生ホール﹂。その中に設けられた学生食堂の東西両壁面には、戦後民主主義の到来で伸びやかに歌い語らう青年男女たちを描いた猪熊弦一郎の壁画﹁デモクラシー﹂が飾られた。本作はホール取り壊し後は西校舎内生協食堂に移設され、現在も学生たちを見守っている。上部が三角形となっているのは学生ホール時代の屋根の形の名残である。信濃町キャンパスは1945︵昭大学病院には病棟間をつなぐ﹁西病舎在来病棟連絡用地下道﹂という長さ23メートルの地下通路があった。空襲時に患者を本館から別館へ避難させる際には、この地下道が使われた。現在この地下通路は病院内の電気配管を通すパイプスペースとして利用されている。多くのものが失われた戦争の終結から80年。キャンパスに刻まれた教育と研究、医療の灯を守り抜こうとした人々の努力、そして戦争の記憶と平和への祈りに目を向け、希望と平和に満ちた未来を切り開いていってもらいたい。︵次号は﹁日吉キャンパス編﹂︶塾 SPRING 2025NO.326       和20︶年5月24日未明からの空襲で罹災し、全体の約6割を焼失するという甚大な損害を受けた。焼け残った予防医学校舎敷地内には今も六角形の焼夷弾の痕が残っている。焼夷弾が降り注ぐ中、教職員と学生による特設防護団の懸命の努力もあって、鉄筋コンクリートの建造物は罹災を免れ、入院患者約180名を一人の負傷者も出さず無事退避させることができた。その奮闘ぶりは翌25日付の朝日新聞で﹁挺身隊八十名、看護婦二百七十名は屋上の焼夷弾を手づかみで投げ捨てるもの、あらゆる容器を利用して水をかけるもの、若い人達は懸命に消した﹂と報道された。そしてこれほどの被害を受けながらも、被災後間もなく臨床部門を残存建物に移して診療が再開されたのである。大学病院敷地内の一角にある﹁食研跡地記念の碑﹂。空襲に耐えた食養研究所︵食研︶には臨床の各教室が移転し、研究室として利用された。戦後の厳しい条件の中で各科が共に研究した場として長く医学部関係者に親しまれていたが、1990︵平成2︶年に建物が解体されるにあたって、外壁の一部が残されるとともに記念碑が建立された。また、かつて信濃町キャンパスの戦災と関係者たちの奮闘の痕跡27西校舎内生協食堂の西側(写真右)、東側(写真左)の壁面に移設された現在の「デモクラシー」空襲で多くの建物が焼失した信濃町キャンパス(福澤研究センター提供)

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