終戦80年・慶應義塾と戦争(三田・信濃町キャンパス編)2025年は、太平洋戦争終結から80年となる節目の年。慶應義塾のキャンパスはこの戦争において全国の大学の中でも最大の空襲被害に遭った。また、約3500名もの塾生を学徒出陣で戦地に送り出し、2200名以上の慶應義塾関係者が戦没している。今号では三田・信濃町両キャンパスにおける戦争による被害と戦後の復興の痕跡をたどりたい。1945︵昭和20︶年5月24日未明~25日、そして26日の2回にわたる米軍爆撃機による空襲で、三田キャンパスでは木造校舎のほとんどが焼失。塾監局や三田演説館などは焼け残ったが、慶應義塾のシンボルである煉瓦造りの図書館旧館は本館部分の閲覧室と事務室、そしてステンドグラスなどが失われた。被災に備え周囲の木造建築物を撤去していたことや、教職員や学生による懸命の消火活動により書庫は延焼を免れ、多くの貴重文献も疎開させており無事であったが、空襲の爪痕は大きかった。戦後、1947︵昭和22︶年の創立90年記念式典において、創立100年に向け10年間を期した復興への決意が掲げられると、まず着手されたのは図書館旧館の修復だった。1949︵昭和24︶年5月に工事は完了。この時点では透明なガラスが入っている状態だったステンドグラスも、1974︵昭和49︶年に復元された。慶應義塾の戦後復興の象徴ともなった図書館旧館は、その後も増改築や改修工事を重ね、重要文化財としてその姿を今に伝えている。三田キャンパスには、戦争の記録を歴史的事実として後世に伝え、戦来きる﹂︵1952年・朝倉文夫︶は、慶た塾 SPRING 2025NO.326 没者への鎮魂や平和への思いを込めた数々の美術品が建立されている。図書館旧館1階に置かれた﹁手古奈﹂は﹃万葉集﹄で詠まれた悲劇の女性をモチーフに彫刻家・北村四し海かいが手掛けた大理石彫刻︵1909年頃︶。空襲によって両腕部分を失うなど大きく破損したが、2009︵平成事前の修復作業にあたっては、戦争という歴史的事実を風化させないよう、焼夷弾の煤をあえて完全に洗浄しない方法がとられた。塾監局前庭園に建立された﹁平へい和わステンドグラス三田キャンパスの復興は義塾のシンボル図書館旧館から塾内の美術品が伝える戦災の記憶と復興への意志26空襲で焼け落ちた図書館旧館(東方社撮影 東京大空襲・戦災資料センター蔵)あえて戦災の痕跡を残し修復された現在の「手古奈」21︶年、60余年ぶりに公開された。
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