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[慶應義塾豆百科] No.98 福澤心訓

世に「福澤心訓」なるものがある。全部で七か条からなり、「一、世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつことである」云々で始まるもので、福澤先生の数多い箴言のなかでも、今日では世人に最も良く知られた言葉となった。ここで述べられているのは、きわめて平易な表現で、しかも現代人にもそう抵抗なく受け容れられる教訓であることから、意外に多くの人々によって語り継がれ、結婚式でのスピーチなどにも、しばしば引用されるようになっているようだ。

けれども残念ながらこの心訓は福澤先生の言葉ではない。どこかの智恵者が勝手に、それもどうやら戦後になってしばらくしてから作り上げ、それをさも先生の発言であるかのように「福澤心訓」などと勿体らしく銘打ったにすぎない真赤な偽作である。

そう思って読むと、この心訓にはなかなか味な表現がある。末尾の一項「一、世の中で一番悲しいことは嘘をつくことである」と。この心訓の作者は、最後に「嘘」をつくことは「世の中で一番悲しいこと」だと、自ら記したのは、皮肉といえば皮肉である。もちろん塾内の福澤関係者もこうした偽作の横行に決して手を拱(こまね)いていたわけではない。『福澤諭吉全集』第20巻の附録で、富田正文が「福澤心訓七則は偽作である」と断定したのをはじめ、新聞、雑誌でこの心訓を福澤の言葉として引用された記述にぶつかるとその都度、筆者にあてて心訓の偽作であることをお知しらせする労をいとわないできたつもりである。一体先人の箴言といったものは、普及させようと努力してもなかなか人口に膾炙しないのが常だが、心訓の場合、「偽作だ」「偽作だ」と声を大にして訴え続けているにも拘わらず、これを福澤先生の言葉として受けとめて座右の銘にまでして下さる奇特な人の方が、偽作だとする関係者の否定をはるかに上廻っているのが現状で、しかもその普及には業者が介在し、立派な額入りにして有料で配布する商魂のたくましさに、いささかお手上げといったところである。だが少なくとも塾生のご父母・塾員諸兄姉にだけは、「福澤心訓」は偽作であることを今一度あらためて指摘しておきたい。よく美術工芸品などで、作者の判然としない作品を「伝何某」とよぶ習慣がある。差し当たり心訓なども「伝福澤」とでもいっておくより仕方がない現状かも知れない。けれどももう一度だけはっきり言っておきたい。「世の中で一番悲しいことは嘘をつくことである」と。