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[慶應義塾豆百科] No.97 浜木綿

三田キャンパス南校舎前の浜木綿
浜木綿と書いて「はまゆう」と読める大学生は100人のうち半分ぐらいはいるだろうか。別名ハマオモトともいう。元来が南国の海浜にしか育たないといわれているこの花が、三田の風物詩に欠かせないものとなったのは、塾員柳弥五郎の尽力によるものであった。

柳といってもいまは知る人も少なくなったが、塾の大先輩で、「入社帳」には明治29年9月入社とある。塾生時代はボート、柔道、野球その他の万能選手として鳴らし、硬派の旗頭でもあった。社会に出てからは郷里和歌山で過ごし、戦時中は海南市の名物市長として軍部としばしば亙り合った反骨の人でもあった。そんな柳だが趣味の点では意外な一面があった。それは浜木綿に魅せられていたことである。晩年を過ごした堺市浜寺の自宅の庭は千本をこす浜木綿で埋められていた。その柳が昭和33年義塾の創立百年に当り、何か母校に寄贈したいと考えた末思いついたのが、三田と日吉のキャンパスに浜木綿を植えることであった。翌34年、常任理事会で受入が決定するや、浜木綿をトラック一杯に積み込み、浜寺から夜を徹して東海道を東京まで運んできた。塾では三田と日吉に植えることにし、三田は南校舎西半分(現在・学生総合センター事務室)の前庭、日吉は記念館前の広場がその場所に予定された。問題は冬である。霜に弱いだけにそれをどう防ぐかに塾でも頭を痛め、結局、一本一本に藁で霜よけをつけることにした。これが巧を奏したのか、三田では翌年も生き生きとした葉と花をつけたが、日吉ではやはり無理だったようである。そんなことを2、3年繰り返した末、柳の助言もあり霜よけをやめてしまったが、すっかり三田の土壌に馴染んだせいか、40年以上たったいまでは見事な浜木綿の群生林となっている。おそらく東京近辺でこれほどまとまったところはあるまい。

夏休みのキャンパスは静かな一時を過ごす。けれども義塾の場合、通学生と入れ替えに、全国各地から夥しい通信教育の学生たちが、夏期スクーリングを受けにやってくる。暑いさなかでの授業は師弟ともに大変な苦行だが、休み時間のひととき、南校舎の前に咲く浜木綿の白い清楚な花と、その芳醇な香りは、多くの通教生にほっとした憩いをあたえている。その意味では、浜木綿は通教生たちにとって、スクーリングでの想い出の花として、長く記憶に残るともいえそうである。