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[慶應義塾豆百科] No.96 三つの文学碑

三つの文学碑のひとつ、久保田万太郎の句碑
赤レンガの図書館八角塔脇の小高い丘に小山内薫の胸像とともに三つの文学碑が建っている。佐藤春夫の詩碑、吉野秀雄の歌碑、久保田万太郎の句碑がそれぞれある。いずれも三田の生んだ忘れ得ぬ詩人たちの作品を、夫々の碑に刻んだものだが年代的に最も古いのは秀雄の歌碑である。昭和47年7月1日、彼の7回忌に大正14年卒業の同期の友人たちの醸金で建てられた。高さ140センチの根府川産の自然石の碑面には、学生時代に詠んだ歌「図書館の前に沈丁咲くころは恋も試験も苦しかりにき」が刻まれている。翌48年は、たまたま万太郎の没後10年に当たるところから、同年の5月9日に彼の句碑の除幕が、行われた。意匠は塾出身の舞台装置家として知られた古賀宏一が担当、高さ110センチの台湾産白大理石に黒御影を嵌めこんだ碑面には、小山内薫を偲んだ句「しぐるゝや大講堂の赤れんが」が刻まれている。裏面にある池田弥三郎の撰文はいう。「久保田万太郎は東京浅草の生れ。三田に学んで永井荷風小山内薫らを師とした。早く作家として世に出て以来、独自な文人として生渝ることがなかった。晩年著作権を母校に寄託し、忽焉として逝った。慶應義塾は記念基金を設けてその遺志を伝え今、没後10年を機として句碑を建てた」と。

歌碑と句碑が揃うと、やはり詩碑がほしいという声が高まり、昭和49年、三田の詩人として親しまれた佐藤春夫の、これも歿後10年を記念した企てとして、その門下の人々の集いである春の日の会の尽力により、秀雄、万太郎と並んで彼の詩碑が建てられた。除幕されたのは同年5月28日のことであった。詩碑は春夫とその生前から親交のあった建築家谷口吉郎の設計になるもので、高さ95センチ、幅190センチの御影石の碑には、春夫の青春の唄ともいうべき四行詩「さまよひ来れば 秋草の ひとつ残りて咲きにけり おもかげ見えてなつかしく 手折ればくるし花散りぬ」が選ばれた。撰文は門下生の一人井上端が書いたが、それは詩碑建立の経緯をよく伝えている。日く「佐藤春夫は若き日慶應義塾に学び、その自由清新なる学風の中に、文学者としての出発を用意せり。ここに春夫の高風を慕う者相集い、母校の一画に詩碑を建つ。石の表に刻みたるは『殉情詩集』に収められし『断章』一篇、春夫の揮毫せしものにして、春夫が敬して已まざりし小泉信三博士の愛蔵せしものなり」と。碑の前の筆塚には春夫遺愛の万年筆が納められた。