メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.95 小山内薫の胸像

小山内薫胸像
三田構内東北部図書館旧館八角塔脇の小高い丘(通称・文学の丘)に小山内薫の胸像が建っている。築地小劇場を興し日本における新劇の父としての小山内を識る人も、彼の胸像が塾にあることに奇異の感をもつ人も多いかも知れない。一高、東大出身の小山内の胸像が三田山上に建つまでには、次のような経緯がある。

即ち、小山内と義塾との縁は、明治43年、彼が大学部文学科の講師として迎えられた時に始まる。その年は義塾文学科に大きな刷新が加えられた時で、殊に教授陣容の充実を図ったことが注目される。即ち文学専攻では、永井壮吉(荷風)、小山内薫、戸川秋骨、小宮豊隆といった新進気鋭の士が、教授スタッフとして加わっている。また同年5月には『三田文学』が創刊されている。爾来大正12年3月まで、13年の長きに亙り、義塾文学科と三田文壇の流れのなかで小山内の果たした役割は、きわめて大きなものがあった。さらに教鞭を辞してからも、小山内の名を不朽のものとした築地小劇場の発足は、実にその1か月前、大正13年5月20日、義塾大学演劇研究会主催の三田大ホールでの講演が、直接の発端となったものである。また小山内が昭和3年の暮、47歳の若さで急逝たるや、夫人とその3人の遺児のために、教育基金の募集行ったのは、慶應義塾社中の人々であった。その結果募金総額は991円に達し、その内諸経費を差し引いて863円44銭を昭和5年2月2日小山内の遺族に贈った。かかる手厚い処置はきわめて異例のことといってよく、彼の胸像が三田に置かれても決して不思議ではない。

この胸像そのものは、昭和33年(1958)歿後30年を記念して、その友人門弟たちが相い寄って、小山内を偲ぶよすがに作ったものである。作者は朝倉文夫で、その年の12月25日、小山内の満30回目の祥月命日に完成した。問題は胸像をどこに置くかということで、ひとまず歌舞伎座に預けられ、その別館の売店前におかれていた。だが本来歌舞伎座の人でない小山内の胸像が安置される場所としては相応しくないとのことから、関係者で協議の末、もっとも縁故の深い三田に移されることになった。昭和39年(1964)年8月1日のことである。

同じ場所に久保田万太郎の句碑があるが、そこに刻まれた「しぐるゝや大講堂の赤れんが」の句は、小山内の授業を偲んで詠んだものである。