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[慶應義塾豆百科] No.91 公孫樹

日吉の並木、三田の大樹、校内の樹木を代表するのは銀杏である。入学式も終え、オリエンテーションも一段落して、そろそろ履修科目を決めようとする頃、日吉では一斉に並木の銀杏が新芽をのぞかせる。朝気付いたと思ったら、夕方には繁みに変わっている。3日も経てば早や緑陰をなしている。まことに成育の早い樹である。

日吉の並木は造園計画に基づいて六十余年前に植樹されたものだが、三田の中央広場の巨木はいつの頃から植えられていたのか、よくわからない。明治初年の絵図には描かれておらず、明治期の写真にも写されていない。大正時代の写真を見ると、塾監局前のそれはまだ若木の様に細いが、第一校舎の南にあるものは、すでに木造二階建の校舎の屋根をはるかに越して聳えている。

三田の公孫樹は幾人かの詩人に謳われている。昭和初年、フランス語教師で詩人の青柳瑞穂は、学生の嘱に応じてカレッジソング「丘の上」を作り、その内で「丘の上には空が青いよぎんなんに鳥は歌ふよ歌ふよ」と謳った。

詩人にして作家の佐藤春夫は、その年から文学科の教授になり文芸雑誌発行の責任者となった永井荷風を慕って、明治42年に堀口大學と共に慶應義塾に入学したのだが、詩人に学校生活はなじまず、数年間在学したが余り登校せず、やがて退学してしまった。

佐藤はそれから20年程経って「三田の学生時代を唄へる歌」と副題をもつ「酒、歌、煙草、また女」を発表した。その一節に「ひともと銀杏葉は枯れて庭を埋めて散りしけば冬の試験も近づきぬ一句も解けずフランス語」というのがある。これは冬の季節であるが、新緑5月の頃をうたったものもある。
再び佐藤が三田を訪れたのはそれから33年後、まだ戦災の傷跡生々しく残る昭和24年5月のことだった。三田文学会の公開講座「近代文学の展望」に講師として連続6回、三田の校舎で教壇に立った佐藤は、窓から見える大公孫樹に次の様に語りかけた。「コレハコレワガ放縦ナル青春ノ記念ノ地 イマ33年ノ後足タユク山上ニ来リ ムカシ落葉ヲ踏ミタル校庭ノ公孫樹ノ鬱タル緑ニ薫風ノソヨグヲ仰ギ サテ近ヅキテソノ幹ニ手ヲ触レツツ 頑健ナルコノ古馴染ニ云フ 偉大ナル友ヨ 君ガ緑ハ年々黄バミテマタ緑ニ 我ガ髪ハ年々白クシテマタ遂ニ緑ナラズ(1949年5月、佐藤春夫)」今この巨木の周りには維持会寄贈のベンチが置いてある。

(注)上の佐藤春夫の詩は、自筆原稿の写真版からとったが、別に学生新聞『三田新聞』1949年5月30日付に、佐藤の私記が載っていて、それに「未定稿のまま」と断ってあるが、この詩の原形が収められているので、参考のため掲げておく。

こはわが放縦なる青春の記念の地
今南風に吹かれつつ足たゆく山上に来り
むかし落葉をふみしかの大公孫樹のうつたる緑を遠く仰き
さて近づきてその幹に手を触れつつがん健なるこの古馴染に云ふ
友よ 君が緑は年々黄ばみてまた緑に
わが髪は年々白くしていよいよ白し