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[慶應義塾豆百科] No.85 藤原工業大学の設立

藤原工業大学開校式(昭和14年6月17日)
藤原工業大学が設立されたのは昭和14年(1939)であった。同年5月26日認可が下り、6月17日開校式を挙行、機械・電気・応用化学の3学科をもつ単科工業大学として、極めて異例のことだが、7月8日入学式、10日授業を開始し、夏休み返上の発足となった。

慶應義塾が既存の文・経・法・医の4学部に加えて、ぜひ理工学部をとの願いは、福澤先生の在世当時からのものであった。明治9年に先生が自ら草した「慶應義塾改革の議案」でも義塾で修むべき学科に優先順位をつけ、「有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり、次で史学、経済学、修身学等諸科の理学に至る可し」とし、しかも「何等の事故あるも此順序を誤る可らず」とまで念を押しているのが注目される。けれども私立の学塾として理工学科をもつことは多くの経費を伴うため、生前には具体化の運びには至らず、その後も計画としてはしばしば評議員会での議題にも上ってはいたが、周囲の状勢はその具体化を許さず、懸案事項として引き継がれるにとどまった。そうしたなかで小泉信三が塾長に就任し、日吉移転の計画が実を結んだこともあり、小泉はハーバード大学創立300年の記念式典に招かれた機会に渡米し、その後アメリカ各地の大学を歴訪して得た結論は、理工学部設立の計画を義塾として早急に推進すべきだということであった。小泉によれば、「慶應義塾が他の方面において幾多の優れた学部や学者を持って居るに拘らず、此の無限の未来を持って居る一番大切であると見られるような方面に向かって、今まで発言権を持って居なかったと云うことは、大学として実に非常に大きな不備であろう」との認識を、新たにしたのであった。そこで槇智雄理事の許で具体化をすすめようとしていた矢先に、製紙王として知られていた塾員藤原銀次郎も独力で同じような工業大学設立の構想を持っていることがわかった。そこで、両者の間で協議を重ねた結果、藤原は当時の金で私財800万円を投じ、経営面は自ら担当するが、研究教育はすべて慶應義塾に一任することで合意に達し、藤原が理事長に、塾長小泉が学長を兼ね、懸案の工学部設立の計画は、藤原工業大学の誕生という形で実現の運びとなった。ただ近い将来、これを慶應義塾に寄付したいとの構想は、創立当初からの既定の事実で、昭和19年8月、正式に義塾の大学工学部の発足となったのである。そして昭和56年、この工学部は念願の理工学部となった。