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[慶應義塾豆百科] No.7 塾名の由来

命名宣言書ともいうべき「慶應義塾之記」とその日課表
慶應義塾の創立された年月は「安政5年10月中旬」である。

開塾後10年間は別に確とした塾名はなかったようで、強いて言えば最初の入門者名簿『姓名録』(『慶應義塾入社帳』第1巻に収録)のうら表紙に、わずかに判読される「不可無堂」なる文字の墨書されているのがないこともないが、これとてもどうも正式の塾名とは見られず、むしろ一般には「福澤塾」の名で知られていたらしい。また、塾舎のあった中津藩邸内では、塾が創設後いくばくもなくして蘭学塾から英学塾に転じたにもかかわらず、依然「蘭学所」で通っていたといわれる。

それがいつからどうして「慶應義塾」と呼ばれることになったかというと、慶應4年4月に塾舎が築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から芝新銭座に移転して、その規模を大にし、学塾の組織を新たにして、近代学塾としての基盤をきずいたときに時の年号をとって「慶應義塾」と命名することになったのであった。そしてそのとき公表された『芝新銭座慶應義塾之記』(以下『慶應義塾之記』と略記)には、そのことをこう述べている。

今ここに会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず、苟も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。(中略)蓋(けだし)此学を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道〔導〕するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取て仮に慶應義塾と名く。云々

つまり、この慶應4年をもって義塾の新しい組織による再出発とし、そのときの年号によって塾名を定めたというわけで、その組織は西洋の共立学校(パブリック・スクール)の制にならい、この新しい組織の学塾に対して特に「義塾」の名を用いたのである。それに、塾名に年号をもとにしたというのも、あえて人にも物にも差支えのないということからで、もちろん新機軸のことであった。ただ、当初は「仮に」名づけたという呼称が、ついに今日までも変更されずそのまま用いられてきているのである。