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[慶應義塾豆百科] No.69 『三田文学』

森鴎外、上田敏らを顧問に、永井荷風らを招いて創刊した『三田文学』
雑誌『三田文学』が創刊されたのは明治43年(1910)5月であった。その編集主幹に永井荷風を推薦したのは、新たに義塾文学科の顧問になった森鴎外と上田敏である。この背景には文学科そのものの刷新があった。即ち学問の分化に伴いその課程を文学・哲学・史学の3専攻に分つと共に、教授陣容の強化に一段と意を用い、文学専攻では荷風のほか、小山内薫、戸川秋骨、馬場孤蝶、小宮豊隆を、哲学では岩村透を、史学では山路愛山、幸田成友、伊木寿一を新たに加えたのはその表れとみてよい。それにいまひとつには、当時早稲田では『早稲田文学』が自然主義文学の牙城として大きい役割を果たしていただけに、それへの対抗意識もあったようだ。そしてこの刷新を、学内で強力に推進したのは幹事石田新太郎である。その頃『あめりか物語』『ふらんす物語』の2作によって荷風の文名はすでに高く、それだけに『三田文学』の登場は自然主義主流の当時の文壇に耽美主義の新風を吹き込むものとなった。因に創刊号の執筆者には森鴎外、野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、永井荷風、黒田湖山、深川夜烏らの名がみられ、藤島武二が描いた図案化された四つ葉のクローバーが3つ並んだ表紙絵には清新の息吹きがあった。創刊10周年を記念して刊行された『三田文選』で前記の石田が述べているように、「自然主義的傾向衰へず、其色調また単一にして聊か慊焉に酎へざるものがあった」なかで、「三田文学の出現は確に其単調を破り、新たなる生気を文壇に寄与したことは疑無き事実」であった。しかも堀口大學、久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫、松本泰、小島政二郎、南部修太郎など、いずれも『三田文学』の誕生に、大なり小なり触発されて育った三田の逸材であった。

爾来今日まで90余年の歴史は、多くの文芸誌がそうであるように、幾度か休刊、復刊を重ねる起伏に富む歳月であったが、創刊六十年を記念して編纂出版した『三田文学総目次』を繙く時、他の文芸雑誌とは違った雰囲気のあることに気づくのである。佐藤朔の指摘によれば「いつの時代でも新人たちが創作に評論に、あるいは翻訳で、清新な文学の息吹きを通わせている」し、執筆者も「「三田派」という観念から見ると意外な作家が、思いがけない作品が誌上を飾っていることがわかる」のである。それだけに再刊された『三田文学』への期待は大きい。