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[慶應義塾豆百科] No.6 『慶應義塾入社帳』の刊行

創立125年の記念事業の掉尾を飾る事業の1つとして、昭和61年(1986)福澤研究センターから『慶應義塾入社帳』(全5巻)が刊行された。慶應義塾は良く知られる通り、安政5年(1858)の創立であるが、この時は藩命を受けての家塾開設であるから、先生はあまり乗り気ではなかったらしい。しかし、咸臨丸に搭乗してアメリカに渡り、次いで1年間もヨーロッパを巡遊して、欧米先進国の文明化を目で見、肌で感じて帰国してからは、学塾経営の態度がにわかに改まり、先生は本腰をいれてこれに当たるようになった。その現れの1つがここに言う『入社帳』の創設である。ヨーロッパから帰国した数か月後の文久3年(1863)春からその記録は始まり、先生の亡くなられた年、明治34年(1901)11月まで書き継がれている。その数およそ2万名。笈を負い日本全国はもとより東アジアの諸国からも青雲の志を抱き、来塾し青春の一時期をこの学塾で過した多感な若者の貴重な記録がこの『入社帳』には書き留められている。

公刊された『入社帳』には三田の本塾に入社した者に限らず、大阪や徳島に設けられた分校や、三田山上にあった医学所や法律学校に入学した者を含み、さらに大学部や幼稚舎の入学者にも及ぶという周到さである。『入社帳』の頁をめぐることに、多くの新事実を発見し軽い目眩を感じるほどである。入社の本人は知名でなくても、その父兄が著名人であったり、保証人に西郷隆盛の名を見出すと、これは自筆だろうか、などと詮索したくなるのも『入社帳』を読む楽しみの一つであろう。さらに第5巻には、明治4、5年に藩や県が発行した入社保証書も洩れなく収録されており、これは教育史の資料として貴重なものである。

従来慶應義塾に学んだ者の記録は卒業生の名簿として、明治22年以来刊行されてきたが、これは卒業制度が設けられた明治7年以降の卒業生の大部分と、それ以前の在学生は後年卒業に準ずると認定を下された者を「塾員」として、この名簿に登載したもので、今日ではこの卒業生名簿は『塾員名簿』とよばれている。しかし、創立以来明治34年までの卒業生総数は4000に満たないのである。この数値に比べ入社生は2万名弱、約5倍なのである。石川塾長の序文には「近代の日本文化を考証する上で欠くことのできない基礎的資料である」とある。