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[慶應義塾豆百科] No.53 「慶應義塾の目的」

「慶應義塾の目的」
福澤先生の書かれたものに、「慶應義塾の目的」と呼ばれる次の一文がある。

慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり

そして、これには先生自筆の書幅がのこっていて、末尾に「以上は曾て人に語りし所の一節なり」と書き添えられているが、この曾て云々というのは実は明治29年(1896)11月1日のことであった。すなわち、この日、芝の紅葉館で慶應義塾出身の古老たちの懐旧会が催され、先生も出席して一場の演説をされた、その結びに このことばが見られるのである。ただ、演説されたときの文言ではまず「老生の本意は此慶應義塾を」とあって、それに前記の言葉がほぼそのままつづき、「以て全社会の先導者たらんことを期する者なれば、今日この席の好機会に恰も遺言の如くにして之を諸君に嘱托するものなり」でおわっている。つまり、この「慶應義塾を」以下を「慶應義塾は」と改め、またおわりの「期する者なれば」を「欲するものなり」としたのが前記の一文というわけである。

したがって、細部の異同はともかくとして、これは先生が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托されたもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表したものであると言ってよかろう。

これをもって思えば、先生が義塾社中に望まれたことの第1は、一言にしていうなら、「紳士」たれ、「淑女」たれ、ということであったと言っていいかも知れない。慶應義塾に学ぶものは常に「気品の泉源、智徳の模範」となり、かつ「全社会の先導者」となるようつとめなければならない。そうすることが義塾の目的にかなうことなのである。

なお、前記の明治29年、紅葉館における福澤先生の演説については同年11月3日の『時事新報』に「演説大意」と題して全文が掲載され、のち大正15年8月31日刊行の『福澤全集』第10巻には、「気品の泉源知徳の模範」と題し、「紅葉館旧友会席上演説」として収録され、さらに昭和36年4月1日刊行の『福澤諭吉全集』第15巻にも同じ題名で再録されている。