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[慶應義塾豆百科] No.52 カンテラ行列

創立七十五年記念式典でのカンテラ行列
慶應義塾が西欧の風俗習慣をいち早く取り入れ、それをわが国に普及させたものは数多くある。私立学校が授業料を徴収するようになったり、大衆に対し自分の意思を伝達する手段として、文書によらず言論による演説を始めたことなどは、その最たるものである。

しかし、一方義塾が他にさきがけてその習慣を取り入れそれを実施してきたが、他にそれを倣うものがなく、義塾独自の伝統行事として珍重されていたものが、今では義塾でも行われなくなったものもある。このカンテラ行列はそういった例である。

カンテラとはブリキカンに灯油を入れて、綿糸を芯としてそれに火をつける携帯冊用の灯火のことで、これを竹や棒の先につけ松明のように高く掲げ持って市内を行進して歩くのをカンテラ行列という。この行進は義塾独自の祝賀行事として、明治から昭和初年にかけて都下の呼物となるほど世に聞こえた行事になっていた。

その由来は明治27年(1894)日清戦争において旅順口が陥落したとき、義塾でも何か祝賀の催しをしようということになり、市中で行われる提灯行列や旗行列では面白くないので、新しい趣向を凝らそうとして、当時『時事新報』の記者で福澤先生の甥に当たる今泉秀太郎が、アメリカのトーチライト・プロセッションに倣い、カンテラで行列することを考案したことに始まるという。

同年11月26日夜、小幡塾長の下、教職員25名、大学部から幼稚舎までの塾生およそ2300名が、体育会長福澤捨次郎(先生次男)総指揮の下、三田山上から皇居前に至りここで万歳を唱した後、日本橋銀座を経て三田へ帰着している。その行進中沿道は見物人で埋まり大変な評判になったらしく、明治の風俗を的確に伝えていることで有名な『風俗画報』(第82号)は、その模様を絵入りで詳細に報道している。

その後も国家的慶事や義塾の祝典などにしばしば行われる様になり、明冶時代に12、3回、大正・昭和もそれぞれ2回ずつ開催され、まさに義塾の名物とよばれていた。

しかし、義塾主催のカンテラ行列は昭和7年5月の義塾創立75年祭に際して行われたものを最後に途絶えてしまった。経験者の談話によると、灯油の油と煤がたれてきて顔から洋服まで真黒に汚れてその始末が大変だったという。戦後昭和33年の義塾創立100年祭当時、これを復活せんとしたが消防法の規制で東京では行えず、日吉から多摩川まで行ったのが最後となった。