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[慶應義塾豆百科] No.51 『三色旗』

慶應義塾の校旗(通称「塾旗」)は三色旗と呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない。それに、色彩についても、フランスのそれが特に平等とか、自由、博愛とかを象徴するというほどの深い意味は、別に塾の旗にはないようで、かつて、昭和5年に第1回の連合三田会が催された折、席上で語られた元塾長鎌田栄吉の談話に

私が塾長に就任致した当時の事で明治31年の頃と記憶する。従来運動会などの時紅白の幔幕を使用し来ったが、白地はすぐに汚点が出来て誠に見苦しい、且不経済だから何とか良い工夫はあるまいかとの事に、私は其れなら白を浅黄に換へて赤と浅黄の取合せがよからうと申してやって見ると、結果は案外よかった。其の頃丁度又塾の旗が必要だと云ふので兎角の考案も出たが、私は矢張り前の幔幕と同様に浅黄と紅を取り合せたものがよからうと申したので、夫れにペン章を付けて今現に使用してゐるやうな三色旗が出来た。

とあるように、当初は単に倹約のために工夫されたものにすぎず、それがいつか塾旗に定められるにいたったというわけである。ただ、制定の年代については多少不明確な点があって、次の鎌田の談話にある明治31年ごろより数年まえにも、すでに塾旗についての記録が存し、色彩こそ不明ながらペンの記章を付して3段に色分けした旗の絵も見られる。すなわち、明治27年11月26日に旅順口陥落の祝賀として塾生がはじめてカンテラ行列というものを行った際、このことが『時事新報』の28日付の記事に取り上げられて、その行列中に塾旗のひるがえっていたことがしるされ、さらに同年12月刊の『風俗画報』第82号には絵入りでその模様が報じられているのである。

こうして、三色旗はとにかく浅黄と紅を取り合わせたものとしておこり、明治30年前後から使われだしたらしいが、それが、色彩については、赤はまだしも、青は濃紺か紫に近く、長年の間にかなり変化し、しかも多様になって、塾のスクールカラーとして広く用いられている。しかし、塾旗として用いる場合、形も色も規格があまりまちまちであるところから、昭和39年2月14日付で「塾旗の基準について」として塾旗の寸法と色・ペンの型・三色旗の割合とペンの位置がはっきりと定められた。