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[慶應義塾豆百科] No.50 福澤先生と北里柴三郎

北里柴三郎
人の一生にとって、ある出会いがその人の生涯を決めることがある。北里柴三郎の場合も、福澤先生と出会ったことが、彼の人生行路を決定づける上で、大きな役割を果たしたことは否み得ない。北里は熊本の人で、東京医学校を卒えるや内務省衛生局に入り、当時の局長長与専斎の知遇を得、明治18年ドイツに留学、コッホに師事して細菌学を学び、破傷風菌の純粋培養と血清療法を発見するなど、数多くのすぐれた研究成果を挙げ、明治25年に帰朝した。当時の日本は衛生状態もきわめて悪く、各種の伝染病が流行していた。北里は1日も早く伝染病研究所を設立することの急務を説いたが、そこには多くの困難があった。北里の終始変わらぬ庇護者であった長与はこうした北里の窮状を福澤先生に打ち明けその援助を求めたのである。先生にとって長与は緒方塾以来の親友であり、かつ北里の業績にもかねてから注目していただけに、早速同年10月4日付の時事新報に「医術の新発見」と題する社説を掲げて彼の業績を紹介するとともに、知友の実業家森村市左衛門と協力して芝公園の御成門脇に研究所を建て、北里の使用に供したのであった。伝染病研究所としてはわが国嚆矢のものである。この研究所はその後大日本私立衛生会の所管となり、場所も芝愛宕下に移ったが、その時も地域住民の激しい反対に対し、先生は時事新報紙上で情理を尽くして説得に当ったことも、北里には忘れられ得ぬ感銘であった。

さらに明治32年には国立に移管されたが、その際も福澤先生は政府の方針でいつ施策が変わるかも知れないから、それに備えて資金を蓄えておくよう助言を与えたのであった。そればかりか明治26年に北里をして芝白金に結核療養所土筆(つくし)ヶ岡養生園を建てさせ、万一の場合に備えさせることにしたのである。果たせるかな大正3年、政府は北里に一言の相談もなく、研究所の所管を内務省から文部省に移し、東京大学の傘下に入れるよう組織がえを図ったのである。北里は断然職を辞し、福澤先生の助言で用意しておいた私財30万円を投じて養生園の敷地内に新たに研究所を興した。今日の北里研究所がそれである。従って大正6年、慶應義塾が医学部開設に際し、北里自身が門下の俊秀を率いてその創設に心血を注いだのは、福澤先生との出会いによって受けた過去の恩誼に、いささかでも報いたい気持ちからであったことはたしかであろう。