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[慶應義塾豆百科] No.49 体育会の創設

福澤諭吉を囲む剣道部員
近代的な学校教育において体育の重要性をいち早く認め、これを日本に紹介したのは福澤先生である。先生の名を一躍著名なものとした『西洋事情』は維新をさかのぼること2年前の刊行であるが、学業のつかれを散じ身体の健康を保つ手段として、西洋の学校では体育を重視していると紹介している。明治初年の慶應義塾においては、規則の中で「ジムナスチックの法」を定めて西洋流の体育思想をとり入れてあり、三田山上にはブランコ・シーソー・鉄棒等が設けられていた。また、当時開設者和田義郎の名をとって和田塾とよばれていた幼稚舎には早くも柔道場があって、和田がみずから道場に立って、幼少児童の柔道を指南していた。これは福澤先生の唱導する「先づ獣身を成して後に人心を養へ」(『福翁百話』)の教育理念を実践にうつした一証左であろう。

ところで慶應義塾の体育団体の総称を「体育会」という。今日(平成14年現在)では39部から成る大きな組織であるが、創立のとき明治25年(1892)当時は剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩の7部であった。操練・徒歩の2部は間もなく廃止されたが、その後は続々と新種目の競技団体を加えて今日の隆盛をみるに至っている。その新種目の運動競技の中で注目すべきは、わが国に初めてそのスポーツを紹介し、それの普及と発展につとめた種目のあることである。ラグビー・フットボール、グランド・ホッケー、ウォーターポロ(水球)等がそれであり、また斯界の普及に先駆的役割を果たした種目に器械体操、庭球、馬術、空手、ヨット、フェンシング、ハンドボール、レスリング等がある。

とりわけラグビーは、慶應義塾の大学部の英文学教員E・B・クラークによってわが国に紹介されたもので、ケンブリッジ大学の選手であったクラークが、晩夏から冬にかけて屋外で何もすることなく退屈しきっていた塾生にラグビーを教えることによって、彼らに時間と天気を無駄にしないよう指導したことに始まる。それは明治32年(1899)のことであった。慶應義塾に生まれた日本のラグビー競技は京都の三高や同志杜に伝わり、学校スポーツとして普及するようになった。かくて明治・大正期30年間、文字通り斯界に君臨してきたのが、体育会蹴球部である。昭和61年1月、同部が大学選手権を制し、さらに社会人チームの代表を倒して日本選手権を獲得し得たのは、まさに伝統の重みと言ってよい。