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[慶應義塾豆百科] No.45 「塾員」の認定

塾員とは大雑把に言えば、義塾の高等教育機関の卒業者と社頭もしくは評議員会の決議で特選された者を言い、第29期の卒業生評議員の選挙(平成6年)に際し塾当局が確認した塾員の総数は、23万1200余名であった。

塾員の規定は明治22年8月に遡る。この時、義塾は私学として初めて大学部を設けるに際し、広く一般に呼びかけて大学開設の資金募集を行っていたから、それに伴い義塾の組織を整備し、規約を制定して、卒業者等にも義塾の運営に参画できる途をこしらえたわけである。その資格は明治22年までの卒業者と社頭たる福澤先生の特選せる者とに限り、これを塾員としたのである。

ところが卒業という制度が義塾の学科課程で確立するのは明治7年からのことであり、それ以前、安政5年から数えて17年間に入社した約2000人の者の取扱いは、一考を要することであった。そこで義塾の執った方針は (1) およそ4ヵ年在学し、(2) その間に後進生を誘掖(ゆうえき)したという2つの条件を設け、この基準に該当する者を卒業生と見做すことにして2000人を審査した結果、卒業生と見做されたのは僅かに158名で、しかもそのうち57名はすでに死亡した者であったから、実質的には101名(5%)しか認定されなかったことになる。かなりの厳しさである。

この101名と社頭が特選した者、及び明治7年以降22年までの卒業生に、社頭の名義で書翰を発し、「塾員」と認めることに異存はないかとの問合せを行い(この人数は不明)、この時特選された者は232名になった。卒業認定者の2倍強である。

この時の調査をもとに、明治22年10月『慶應義塾特選員・卒業生・現在生姓名録』が刊行され、翌年には『慶應義塾々員・同寄附金者姓名録』と名称を改め、その後『塾員姓名録』と改称して、今日の『塾員名簿』という名称に一定するのは明治44年からのことである。