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[慶應義塾豆百科] No.40 社頭

小幡篤次郎
慶應義塾には「社頭」という職がある。規約の上では塾員中から1名推薦されることになっていて、その役割は塾員を特選もしくは除名することに限られている。現行の学校法人による規約の前は、明治40年制定の財団法人の規約であるが、これも現行とほぼ同様の内容であるから、明治40年以来社頭という職は、義塾を運営する役員ではなくなったが、あくまで義塾社中の結束の象徴的存在であったといえよう。

しかしこの社頭という地位は、それ以前はきわめて重要な地位で、むしろ慶應義塾における最高の役職だったことがある。たとえば明治22年義塾が初めて規約を制定したとき、その第1条に社頭を掲げ、冒頭に「慶應義塾ノ事ヲ監督シ」とあって、塾長以下義塾の教職員を監督すると同時に、義塾の経営を総覧する立場であったことがわかる。

さらにこの明治22年規約にみられる社頭の地位は、実は明治14年制定の仮憲法に則ったものである。14年の仮憲法というのは、その前年義塾が初めて維持資金の援助を世間一般に求めたため、経営の主体と責任を明確にするために制定した規則で、理事委員21名中1名を社頭として、義塾の学事会計一切の責任を負うものとした。

ところが、明治14年以前の社頭は義塾の最高責任者というような役職ではなく、ひとあじ違った内容の地位であった。というのは、この社頭という地位は、慶應4年4月近代的教育機関として慶應義塾が発足したその時に設けられたもので、福澤先生がその職についておられた。その当時の書翰の一節に「僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、之を総称して一社中と名け、僕は社頭の職掌相勤、読書は勿論眠食の世話塵芥の始末まで周旋、其餘の社中にも各々其職分あり」(慶應4年閏4月10日付、山口良蔵宛)とあって、慶應義塾では教える者も学ぶ者も共通の目的で結束した社中であるから、先進者は後進生の面倒を見ることを当然の事としていた。社頭である福澤先生の教育姿勢が義塾全体に浸透し、互いに他人の人格を尊重する「独立自尊」の教育がおのずと形成されたといえよう。明治6年版『慶應義塾社中之約束』に「社中一員ヲ撰テ総代トシ之ヲ社頭ト名ケ兼テ支配人ノ長タリ」とあるのも同じ線上の思想傾向である。

歴代の社頭には福澤諭吉、小幡篤次郎、福澤一太郎、福澤八十吉らがいずれも死去まで就任していた。現在は空位である。