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[慶應義塾豆百科] No.38 交詢社

世に福澤先生の3大事業と称するものがある。慶應義塾と交詢社、それに時事新報の3つである。明治15年(1882)に創刊された「時事新報」は、政党色の濃かった当時の新聞界において、不偏不党の立場を堅持して隆盛を示し、一時は「日本一の時事新報」と自ら称していたほどであるが、昭和10年代のはじめ経営的に行詰り廃刊してしまった。残りの2つは教育機関あるいは社交機関として、それぞれ斯界の最古のものとして指導的位置にあることは周知のことである。しかし交詢社は東京に設けられた会員制のメンズ・クラブであるため、慶應義塾に比べるとその知名度は幾分落ちるので、福澤先生と交詢社との関係について、簡単に述べることにする。

先生は慶應義塾の教育の目的は、学者を養成するのではなく、実社会に出て実技をみがき、社会の先導者となるべき人物の育成にあるとされていたから、慶應義塾を卒業した後の若者がどのように成長して行くか、非常な関心を持っておられた。学校を離れ教科書との接触が少なくなった者の勉学の手段として、本を読むのではなく人と接して談笑する間に、互いに知識を交換しあう社会教育の場を考えつかれた。

それは明治9年に三田山上に万來舎という小屋を構えて、教職員・塾生をはじめ外来者でも自由に出入りできるようにしたのが始まりで、この方式を世間一般に拡大したのが、ここに言う交詢社である。

交詢社は明治13年(1880)福澤先生の主唱のもとに「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」ことを目的として結成された日本最古の社交機関である。創立の当初から1700余名の会員を擁していたが、これらは慶應義塾の卒業生に限らず、広く世間一般にその加入を勧誘したから、社員の職業で一番多いのは学者・官吏であり、続いて商業・農業の順となっていて、役員である常議員も24名中慶應義塾関係者は12名に過ぎなかった。このように交詢社は確かに福澤先生によって設立された社交機関であるが、これを慶應義塾の卒業生だけのクラブとしなかったところに、先生の大きな視野が感じられ、それがまた交詢社の隆盛を約束している原因の1つである。

銀座6丁目の現在地は創立以来、関東大震災によって一時立ち退いた以外は移っておらず、昭和4年に立てられた現社屋は、周囲の喧燥さをたしなめるように落ち着いて建っている。

東京大空襲を生き抜いた歴史的建造物も70年の時を経て老朽化が進み、修繕し維持するためには膨大な経費が掛かることから、2004年9月建て替えとなりました。地上10階、地下2階の新しい交詢ビルディングは、旧建築の正面玄関をそのまま保存しており、談話室や中庭も一度解体し復元・移設。伝統を保ちながら先進性を兼ね備えています。