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[慶應義塾豆百科] No.33 徳島慶應義塾

徳島慶応義塾の教員と生徒
徳島慶應義塾は明治8年7月から翌9年11月まで、1年あまり徳島に設けられていた義塾の分校である。設立願の書類を見ると場所は「第3大学区名東県管下第1大区5小区名東郡富田浦3番地」としるされているが、いまはもちろんこういう地名はのこっていない。

この徳島慶應義塾の開設に先立つ明治6年11月、義塾は大阪に分校を置いたことがあり、その設立の理由は「関西地方学生にして東都に上ることの難き者をして就学の便を得せしめんが為」とされたが、2年後の同8年7月には、いちおうこれらの事由は消滅したものとして閉鎖されることになった。ところが、閉鎖に際し、たまたま徳島の有力者たちの要望と援助とがあり、これを改めて徳島に移すにいたったという。これがつまり、徳島慶應義塾の設けられた所以である。

大阪慶應義塾において最後の校長をつとめていた矢野文雄の伝記『龍渓矢野文雄君伝』中の次の記事も、その間の事情を語るものである。

大阪に留まること1年余にして、先生(矢野文雄)は更に徳島に移ることになった。徳島の有力者が蜂須賀家の援助をうけ、福澤翁に懇願して、義塾の分校を立てることにしたので、先生は、ここの校長に転じたのである。が、大阪にゐた頃の生徒中、先生に従って徳島に移る者が随分多かったので、大阪の分校がそのまま引っ越したやうな形であった。

そのためであろう。この徳島慶應義塾の入学者の記録なども、はじめの40名は『大阪慶應義塾入社帳』に記載されており、徳島での新しい帳簿には9名を載せているにすぎない。それに、校長も矢野文雄が大阪時代から引きつづき在任し、明治9年3月になって城泉太郎が赴任して代わったのである。