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[慶應義塾豆百科] No.32 稲荷山

稲荷山に建つ、商工学校創立70周年記念時計塔
三田の校地は高燥にして眺望絶佳と称された土地で、昔の正門で俗に「幻の門」と呼ばれている東門から入ってくると、石畳に石段が続き上にのぼりつめると、年輩の方などは立ち止まって一息つくくらいの急斜面である。現在の正門である南門は切通の壁を切り崩し土地を削り取ったところに建てられた門であるから、南校舎を通り抜けるには三度階段をのぼらなければならない。要するに三田の校舎は地形から言えば、三田台地の東南端に位置する高台なのである。

そのため三田を指す呼び名として普通「山」という言葉が使われて、歌の文句では「丘」と呼ばれることもある。中等部や女子高等学校の教職員は、大学や塾監局へ行くことを「山に行く」と言っているのは、これらの学校が台地西側のやや低いところに建っているからであり、三田山上にある学生食堂は「山食」と呼ばれている。

ところがこの三田の山には、もう一つ山があるのである。南門から入ってすぐ左手の演説館の建つところ、そこを稲荷山と称している。その謂(いわ)れはこうである。

三田の校地は昔島原藩の中屋敷があった所だが、江戸末期の文化文政期には在府の諸大名が、藩の財政負担をいくらかでも減らそうと、屋敷内に淫祠をまつり、周辺の町人に開放して費銭稼ぎをしたと言われている。島原藩もそれに倣って藩邸南西部に稲荷祠を設け、わずかな現金収入を得ると同時に、周辺の住民に品川の海の眺望をほしいままにする機会を与えたものの様である。文政12年(1829)の記録(大郷信斎『道聴塗説』第19編)には、三田島原侯の別邸に住む老狐は、数百年の星霜を経ていて神霊に通じる力があるとの噂を載せている。

明治5、6年の三田絵図には、南西隅に「イナリ」と鳥居の絵が描いてあり、8、9年のそれには既にないので、その間にこれは取り払われたものらしい。現在、西校舎の西側から下の民家へ抜ける道が、わずかにその名残を留めている。

この稲荷山を心の故郷として懐かしむのは、商工学校の卒業生である。この学校は明治38年に開校し、昭和22年の新制度により残念ながら廃校になったが、校舎が稲荷山の東側、現在の南門広場近くにあったため、この稲荷山は商工生の憩いの場だった。商工同窓会の機関紙は『稲荷山から』と称している。