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[慶應義塾豆百科] No.30 演説の創始

三田演説館に掲げられている福澤諭吉肖像
自分の意思を多数の相手に伝達する手段として、演説や討論という方法を日本に紹介したのは、福澤先生をはじめとする初期の慶應義塾入門生、すなわち慶應義塾の社中である。

古来わが国には演説という習慣がなく、自分の意見を他に示し賛同を求めるには、書面にしたためてこれを示す以外に方法がなく、重要なことは文章にするという文書第一主義が一般的であり、口頭による意見の発表は、十分に信頼のおけるものではないとの考えが支配的であった。しかし、この習慣を改めない限り、議会政治の開始はもとより、公平な裁判の実施すら覚束なくなるというので、慶應義塾では教室の中での教育以外に、社会教育の一方法として工夫されたのが、この演説であった。

演説を始めるに当たって、手本とする原書を翻訳してこれを見倣うわけだが、まずスピーチやディベートの訳語からつくらなければならなかった。スピーチの訳には、もと中津藩で藩士が非公式に自分の意見を上申する時に使った「演舌書」という言葉を先生は思い出され、演舌の舌を、俗だからと説に替えて「演説」という訳語を作り、ディベートは弁論・討論と訳された。しかし、セカンドは賛成するという動詞には気付かず、ついに誤訳されてしまったが(『会議弁』)、とにかく明治6年夏から三田山上の福澤先生の自宅や他の教員宅で、他人の傍聴を許さず10余名の有志の者のみで、演説や討論の練習に励んでいた。

当時最高の知識人の結社と見られた明六社のメンバーですら、日本語はヨーロッパの言語と違い、大衆に意見を伝えるには適さないなどと見当違いのことを言う者(森有礼)もいたが、その明六社の集会で先生はさり気なく時事問題について演説され、日本語でも立派に自分の意見を他人に伝達することの出来ることを証明されて、演説の必要をとなえられた。

明治7年にはいよいよ三田演説会を組織して一般に公開することとし、また演説や討論の仕方を手ほどきした本や規則を発表して、その普及につとめられた。それに従い、この三田演説会の専用演説ホールとして明治8年に造られたのが、現在も三田山上の南西隅稲荷山に建つ「三田演説館」であり、この建物は明治期建造物の特異な遺構として、昭和42年国の重要文化財に指定されている。今日でも三田演説会や学位授与式・各種講演会の開催などに使用され、有効に利用されている。