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[慶應義塾豆百科] No.29 京都慶應義塾

「京都慶應義塾之記」(1874年)
京都市のほぼまんなか、上京区下立売通新町西入ル薮ノ内町に京都府庁がある。往年の京都守護職の屋敷跡にあたり、門をはいってすぐ右のところにそのことを示す小さな石碑が建っている。そして、これと相対する左手の、守衛所のかげになる奥まったところにも、また別の記念碑が一基あり、この方には「独立自尊」の四文字の、横書に大きく刻まれているのが目立つ。

すなわちこれは、かつてこの同じ場所に京都慶應義塾のあったことを伝えるもので、「独立自尊」の4文字は福澤先生の筆蹟をそのまま拡大して碑面にあらわし、下に小さく「明治七年」、さらに最下段にそれよりすこし大き目に「京都慶應義塾跡」と、ともに建碑当時の塾長林毅陸(きろく)の揮毫によって、3段に記してあるほか、両側面にはペンのしるしを浮彫にし、やはり林の撰文で青銅板にしたためられた、左の碑誌が背面にはめこまれている。日く

「此所は明治七年京都慶應義塾の在りたる故跡なり。当時の京都府知事槇村正直の希望に依り福澤諭吉先生之を設立し、基高弟荘田平五郎専ら経営の任に当り他の講師等と共に英学を教授したり。其の存続は約一年間に止まりしも、文化発達の歴史上之を堙滅に帰せしむるに忍びず、乃ち碑を建てて其地点を表示するものなり。」

日付は「昭和七年十一月廿七日」、「京都慶應倶楽部建之」とある。

明治7年(2月開業)からおよそ1年間、慶應義塾は槇村正直(碑誌には「京都府知事」とあるが、当時は参事で、知事は長谷信篤であった)の要請で、このように分校は「京都慶應義塾」を置いていたことがあり、主として荘田平五郎が奔走してはじめたのであった。

設立に際し発行した『京都慶應義塾之記』によると、この分校は「東京三田二丁目慶應義塾ノ教員出張ノ学校」であって、東京の本塾と違って「講堂ノミニテ眠食ノ部屋ナシト雖モ追々生徒ノ都合ニヨリ塾舎モ設クベシ」とあるから、生徒の修学状況によって寄宿舎も設置する計画であったようだ。しかし大阪と同様、その意義は間もなくうすれてしまったものと思われる。

なお、この記念碑の立てられた昭和7年はちょうど慶應義塾の創立75年にあたり、京都慶應義塾の開設からは59年になるのであった。