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[慶應義塾豆百科] No.28 幼稚舎の創始

幼稚舎生の制服(明治時代)
幼稚舎といえば、世間ではよく慶應付属の幼稚園と受け取られがちだが、実は歴とした小学校である。

この幼稚舎が創設されたのは明治7年1月のことで当時は和田塾とよばれ、幼稚舎と名称を改めたのは明治13年のことであった。それは福澤先生が幼童の教育を門下の一人和田義郎に託したからである。和田は和歌山藩士で幕末に藩の留学生として鉄砲洲の福澤塾に学んだが、その人柄は「温良剛毅にして争を好まず、純然たる日本武家風の礼儀を存す」るとともに、年少の頃より柔術に秀でた偉丈夫でもあった。入門当時すでに妻帯していたが、夫婦ともに無類の子供好きでありながら子宝に恵まれなかったことも、幼稚舎の初代舎長の白羽の矢が立てられた理由でもあった。

もちろん幼稚舎の創設には2つの背景があった。1つは福澤の名声が高まるにつれ、全国から三田に学ぶ生徒の内にはかなり年少者が交じっていた。そのため一般の塾生と同じ教室で教えるには幾つかの支障が生じ、幼稚舎開設の以前から既に童子局なる部門を設けていたが、機が熟し正式な初等教育機関の誕生につながったことである。

いま1つの背景は福澤家の子女たちが学齢に達したことである。因に明治5年の時点で、長男一太郎は数え年10歳、次男捨次郎は8歳、長女里は5歳になっていた。先生としてはわが子の教育を託するに足る小学校をと周囲を物色してみたが、どうも適当な学校が見当たらない。そこで塾内に小学校を自ら創設しようと考えるに至ったとみてよいのではないか。

こうして生まれた幼稚舎であったが、公立の小学校には見られぬ特色があった。第1は全寮制を建前としたことで幼稚舎に入学するのはその寄宿舎に入寮することであった。通学生も少しはいたがそれは例外であった。第2は教科のなかで低学年から英語に力を入れたことで外国人教師を雇って発音、会話の練習をさせると共に、上級での歴史、地理、代数、幾何、生物、物理などの教科書は、いずれも英語の原書(貸与制)を使っていた。第3にあまり厳しい学年制を採らず、入学の時期もある程度自由だったし、学力による飛び級も認めていたようだ。しかもそうした勉学もさることながら、幼稚舎で最も意を用いたのは、強健な身体の育成であった。体育は学科の中で最重点科目であった。蓋し福澤先生の初等教育における立場は、「まず獣身を成して而して後に人心を養う」ことにあり、幼稚舎教育の理想もそこにあった。