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[慶應義塾豆百科] No.24 慶應義塾と歯科医学

慶應義塾の医学教育(23 慶應義塾医学所50 福澤先生と北里柴三郎 参照)については別に記しているので詳しくは述べないが、古くは明治6年から8年間、英語による英国式医学教育の機関として設けられた医学所とか、大正6年に世界的細菌学者北里柴三郎を迎えて設けられ、現在に至っている医学部のあることはよく知られている。しかし、医学に限らず、歯科医学の分野でも、慶應義塾の出身者が先駆的役割を果たしていることを、見逃してはならない。

日本における歯科医師の第1号登録者小幡英之助や、日本最初の歯科医学教育機関の設立者高山紀斎やその継承者血脇守之助などは、いずれも慶應義塾の学窓から巣立った若者であった。

明治初年のわが国では、歯の治療をする者は口中科とか入歯師とよばれ、普通医から一段低く見られており、専門の教育機関も設けられてなかった。そのため、歯科医たらんと志すものはまず開業歯科医師の門に入り、丁稚奉公のような雑用を勤める傍ら、師匠の技術を修得しなければならなかった。右の3人のうち年長の小幡、高山は、この経歴の持ち主である。

小幡英之助(義塾の長老・小幡篤次郎の甥)は慶應義塾で英語を学んだ後、横浜で開業していた米国人歯科医師の下で研鑚を積み、明治8年独立して開業することになったが、当時わが国には歯科医師を認定する規則がなかったので、英之助は政府に交渉して普通医に準ずる試験の実施を要求し、みごとに合格し、同年10月2日歯科医師開業免許を手にすることができた。これが日本における歯科医師登録の嚆矢であった。

次に高山紀斎は慶應義塾で英語を学んだ後米国へ留学し、サンフランシスコで米国人開業歯科医の下で7年間修業を積み、米国の開業試験に合格して、明治11年帰朝した。

帰国後、高山は開業すると同時に多くの門下生を育成し、歯科の専門書を刊行し、明治23年1月には、伊皿子の自宅の隣地に高山歯科医学院を創設した。これが日本における最初の歯科医学の教育機関である。

高山は小幡の庶民的性格と違い、多くの公務を兼ね多忙を極めていたため、明治32年学院の経営を、学院出身の血脇守之助に譲ることにした。血脇も慶應義塾の出身で、新聞記者や英語の教師をした後、高山の学校に入学して歯科医となり、同学院を継承して東京歯科医学院と改称した。これが現在の東京歯科大学の前身である。